第16回 福岡・博多の誓い
25年4月16日
 
広宣流布の胸中の旗を高々と!

1980年5月1日、九州平和会館〈当時〉で行われた福岡県本部長会に池田先生が出席した。“信心の炎を消すな!”との先生の大師子吼(だいししく)に、同志は新たな師弟共戦を誓い合った

 福岡市の北東部、博多湾に面し、玄界灘を望む博多区は、古くからアジアと日本をつなぐ港町として発展してきた。九州の陸・海・空の玄関口として、福岡空港や博多港、新幹線の博多駅を中心に、世界中から人々が往来する国際都市である。
 13世紀の鎌倉時代、文永・弘安の役と呼ばれる蒙古襲来の激戦の地となった博多。その地に“恒久平和の哲理を世界へ発信しよう”との誓いを込めて、九州平和会館(現・博多平和会館)は誕生した。1977年(昭和52年)5月17日、池田先生を迎えて開館記念の勤行会が行われている。
 同会館では本部幹部会をはじめ、九州の主要な会合が開かれ、多くの友が世界広布を決意する舞台となった。
 80年(同55年)5月1日、この会館で、先生が“師子の魂を注ぎ込む思い”で福岡の友に語り、友が先生に“絶対勝利”を誓う歴史的な会合が行われた。
 ◇ 
 同年4月29日、先生は5回目の中国訪問の帰途、長崎空港に降り立った。
 当時、宗門の悪侶らによる学会攻撃が熾烈を極めていた。先生は79年(同54年)4月に第3代会長を辞任。“会合で指導してはいけない”“聖教新聞で報道してはいけない”と、宗門は先生の行動に制限を加えた。
 先生の動向が、ほとんど報じられなくなって1年。広布前進を阻む暗雲を打ち払うため、先生は九州から反転攻勢の助走を開始したのである。
 空港から長崎文化会館へ移動し、長崎支部結成22周年記念の幹部会に臨んだ。その折、本紙の記者が“長崎の幹部会に先生が出席したことを記事にしたい”と伝えると、先生は即座に応じた。
 「かまいません。事実を隠す必要はない。創価の師弟が分断され、不二の心が失われていけば、広宣流布はできない。だから私は、同志と共に戦いを開始します。私の今後の予定も発表しよう」
 「さあ、反転攻勢だ! 戦闘開始だよ!」
 翌30日付の本紙には、先生が幹部会に出席した模様に加え、「名誉会長は、長崎のあと福岡、関西、中部の会員の激励・指導に当たる予定になっている」と明記された。
 この記事は、列島を歓喜で包んだ。この日、長崎から福岡に向かう列車の時刻表を見て、停車すると見込まれた駅に、大勢の同志が集まった。
 30日の13時30分、長崎駅を出発した特急「かもめ」8号は、諫早駅、肥前鹿島駅、肥前山口駅、佐賀駅、鳥栖駅を経由し、15時58分に博多駅に到着。先生は九州文化会館(現・福岡中央文化会館)へ向かった。
 会館に着くと、集っていた友のもとに歩み寄り、「ありがとう! 皆さんは勝ったんです」と声をかけた。
 先生の手を握って離さない友がいた。オープンした料理店が雑誌に紹介されたと喜びの報告をする同志がいた。清らかな師弟の交流が繰り広げられた。
 5月1日、九州平和会館で福岡県本部長会が行われた。池田先生の力強い声が響いた。
 「『広宣流布の胸中の旗』を、断じて降ろしてはならない!」
 「『折伏の修行の旗』を、決して降ろしてはならない!」
 「『一生成仏の、信心の炎の光』を消しては絶対にならない!」
 この叫びを、先生は一回、もう一回と繰り返した。この師子吼は、九州の友が深く胸に刻む永遠の指針となった。

同志の拍手と歓声に、両手を上げて応える池田先生。“全ての同志を励まさずにはおくものか!”との気迫で、先生は友の中へ飛び込んだ(1980年5月1日、九州平和会館で)
 
興隆安穏の人生に
 
 
 福岡県本部長会の時、創価班として駐車場で整理・誘導の任務に就いていた原功さん(博多県・副区長)。
 本部長会には、多くの友が集った。先生は第1会場で激励した後、第2会場へ。その時、“場外の役員も館内に”と伝言。原さんは喜び勇んで第2会場へ向かった。「学会から離れてはいけない」との師の言葉を自身の生涯の誓いにした。広宣流布の旗を胸中に高く掲げ、九州広布に勇んで駆けた。
 港湾運送の会社で勤め上げ、定年後、マンションに引っ越した。住民同士の交流が希薄な環境。原さんは“住民が触れ合う場を”との思いで、行政や住民と意見交換の場を持ち、町内会を立ち上げる。
 交流のイベントなどを企画し、住民の絆を育んだ。原さんの率先の行動は、少しずつ周囲に信頼を広げた。
 地域貢献に尽力する姿は、学会理解にもつながった。先日も、マンションの友人が、原さんの自宅で開かれた支部総会に参加。学会への共感を深めた。
 3年前、原さんはパーキンソン病を発症した。歩行に困難が伴う。だが、福岡県本部長会での先生の三つの指針を思い返しては、決意を新たにする。100メートル歩いたら、休憩を挟み、また100メートル歩く――そうして、訪問・激励や対話に挑んでいる。
 原さんは誓う。
 「先生の励ましがあったから、今の自分があります。一生成仏の信心の炎を、生涯、燃やし続けます!」
 博多区の初代婦人部長を務めた平井紀子さん(同、県女性部主事)。旧満州(現・中国東北部)で生まれ、終戦後、日本に引き揚げた。
 生活は苦しく、希望など見えない日々。その中で、仏法の話を聞き、56年(同31年)3月、16歳の時に入会する。2年後、結婚。信心強盛な夫と二人三脚で広布に駆けた。
 65年(同40年)2月、夫婦に試練が襲う。5歳の長男が遊んでいた時、車にはねられた。当初、意識はあったが、搬送先の病院で容体が悪化。霊山へ旅立った。
 平井さんは頭が真っ白になった。同志が励ましに訪れ、寄り添ってくれた。その真心が胸に染みた。「冬は必ず春となる」(新1696・全1253)との御文を抱き締め、悲しみを振り払うように、がむしゃらに祈り、対話に走った。
 その中で、少しずつ変化が現れた。長男を思うと、涙があふれるのはどうしようもない。だが、悲しみの感情に負けない自分になった。
 長男が亡くなって11年がたった76年(同51年)2月、平井さんのもとに、先生から色紙が届いた。そこには、こう記されていた。
 「平井家代々の興隆安穏を祈りつつ」「坊やの冥福を祈念してます」
 博多を訪問した先生が、平井さんの状況を聞き、つづったものだった。思いがけない激励に、平井さんは感動で胸が詰まった。“先生、胸中の長男と一緒に、何があっても広布の道を進もう”と決意した。
 80年5月の先生の博多訪問は、その決意を一層固める原点となった。第1次宗門事件の烈風が吹き荒れる中、九州平和会館で一人一人を抱きかかえるように励ます師の姿に、平井さんは広布への誓いを新たにした。
 10年前、自宅を建て直し、広布の会場として提供。支部・地区の同志がにぎやかに集うことが、何よりの喜びだ。「先生に『興隆安穏』と書いていただいた通りの人生になりました」と平井さん。感謝を胸に、広布一筋の道を真っすぐに進み続ける。
 ◇ 
 80年5月2日、先生は福岡空港へ向かう寸前まで、九州平和会館で激励を続けた。求道の心熱く集った大勢の友と、何回も記念撮影を行った。
 ただ友のために――真心の限りを尽くした師の激励行から45星霜。“博多の誓い”を果たし、立正安国の勝利の旗を高々と掲げる時が来た。

博多の北西部、古くから商人の街として栄えてきた呉服町の交差点(1987年10月、池田先生撮影)