第14回 福岡・筑豊総県
25年2月19日
 

福岡の筑豊支部結成25周年を記念した地区部長会に、池田先生が出席。先生は「最高の豊かさは、唱題をしゆくところにある。御本尊を信受し唱題に励みゆく人は必ずや最高の幸せな境涯となっていける」と訴えた(1985年2月24日、筑豊文化会館〈当時〉で)

必ず立派な人材が出る
筑豊総県は、福岡県の中央に位置する飯塚市、田川市、直方市など、5市9町1村が広布の舞台だ。複数の大学を擁する学園都市、緑あふれる自然都市、さらにベッドタウンとして発展を続ける。
筑豊に初の支部が結成されたのは、1960年(昭和35年)5月3日。池田大作先生の会長就任と同時に、戦いの火ぶたが切られた。
筑豊地域はそれまで、炭鉱都市として発展を遂げてきた。最盛期には全国の出炭量の過半を占め、日本の近代産業の発展に大きな役割を果たした。
60年代、石炭から石油へとエネルギー転換政策が進む。石炭の需要は急減し、多くの人が新たな職を求め、筑豊地域から離れざるを得なくなった。
そのような試練に直面していた66年(同41年)10月16日、池田先生が筑豊地域を初めて訪問。飯塚市内で開催された2400人の同志との記念撮影会に臨んだ。
12回の撮影の合間、先生は同志に励ましを送り続けた。
「どんなに生活の状態が、大変であろうとも、題目をしっかりあげることです。それ以外、宿命打開の道はない」
「『如蓮華在水』の原理の如く、必ず筑豊にも幸福の花が咲きます」
「国破れたところに偉人あり、貧しき家庭に孝子ありです。必ず筑豊から立派な人材が出ます」
この撮影会に姉妹で参加した浦田文子さん(直方県、女性部副本部長)。
「どんなことがあっても明るく生きるんだよ。どんなことが起きてもだよ」との先生の言葉を今も胸に刻む。
撮影会から2年後に結婚。3人の子どもに恵まれたが、夫を病で失う。
絶望のどん底で、思い返したのが「明るく生きるんだよ」との励ましだった。
子どもたちを車に乗せ、自身の宿命転換と友の幸福を願い、唱題を重ね、学会活動に励んだ。不安に覆われた心に、“必ず幸福になれる”との確信が湧いた。その希望の灯で自らが歩む道を照らし、前へ前へと進み続けてきた。
母の力強い生き方を見て育った次女の富貴美さん。創価大学を卒業後、福岡で小学校の教員になった。方面女子青年教育者委員長などを務め、九州中を駆け回った。
2008年(平成20年)、富貴美さんは、現職教員の派遣制度でカンボジアに渡った。2年間、カンボジア人の教員を育成するプロジェクトに従事。その後も、カンボジアの教育の発展のために尽くしてきた。
14年(同26年)、富貴美さんはカンボジアSGIの理事長の任命を受けた。「世界一仲良き前進! カンボジア」との師の指針を胸に、平和と幸福のスクラムを広げている。
九州の友は、草創期から「東洋広布の歌」を歌いながら、あらゆる戦いに先駆してきた。筑豊の友も歌声を高らかに響かせながら、“必ず広布の人材を”との決意で、異体同心の団結の歩みを進めた。
浦田さんは今、地域の同志と共に対話に歩く日々だ。先日、孫と一緒に友人のもとへ向かい、本紙の購読推進が実った。
その胸には、師恩に報いる誓いが熱く燃えている。

筑豊文化会館訪問の折、池田先生が飯塚市内の風景をカメラに収めた(1985年2月)。かつて全国有数の炭田地帯だった筑豊地域は今、新たな産業創出の拠点として発展する

「皆さま方は全てに勝った」
1974年(昭和49年)1月20日、池田先生は田川会館(当時)を初訪問。その折、愛唱歌「田川に春を」の歌詞と譜面を受け取った。
先生は、2日後に福岡市で開かれる本部幹部会で、同歌を歌うよう提案。誓いと歓喜の歌声が、幹部会で轟いた。田川の友の永遠の原点だ。
師のたび重なる激励を胸に、破竹の勢いで前進を続ける筑豊の友に、障魔の嵐が吹き荒れる。第1次宗門事件である。
悪僧らの理不尽な学会攻撃が火を噴いた。当時、地区担当員だった塚原利江さん(田川県、圏女性部主事)。悔し涙を拭いながら、動揺するメンバーのもとを訪れては、学会の正義を語って語って語り抜いた。讒言の逆風の中、師匠を求め、地域の最前線を駆けた。
その全ての苦労が報われる日が来た。85年(同60年)2月24日、前日までの吹雪が収まり、澄み渡る空が広がる中、池田先生が筑豊文化会館(当時)を訪れたのである。
筑豊支部結成25周年の地区部長会で、先生は語った。
「大変に発展された、この筑豊の皆さんとお会いできて、お元気な姿を拝見できて、私はうれしい」
「悪い僧が、広宣流布を願って日夜真剣に戦っている仏子である学会員をさんざんにいじめ抜いたことをよく知っています。許せない」
「皆さま方は、正しい信心で全てに勝ったわけである」
慈愛あふれる師の言葉に、塚原さんは師弟共戦の誓いを深くする。一人一人の幸福を祈り、希望を送り続けた。
2011年(平成23年)、夫の義晴さん(同、副支部長)の右肺に7・4センチの腫瘍が見つかった。義晴さんは病魔に負けず、宿命転換を祈り、2人の友を入会に導く。その後、手術は無事に成功。励ましを送り続けてくれた同志への感謝を胸に、夫婦は筑豊広布の伸展に尽くしている。
地区部長会の開会前、21人のメンバーで結成された太鼓隊が、勇壮な演奏を披露した。永岡秀作さん(筑豊総県、副総県長)は、その一人だ。
先生は太鼓隊のもとに歩み寄ると、「頼むよ」と声をかけ、永岡さんと握手を交わした。師の手のぬくもりに、永岡さんは「弟子として生き抜く」と覚悟を定めた。
子どもの病気や自身の左目の視力の一時的な喪失など、幾つもの逆境があった。そのたびに、家族が団結し、全てを乗り越えてきた。
一昨年、28世帯目の弘教を実らせた。師匠の「頼むよ」との言葉を心に響かせ、後継の青年の激励に奔走する。

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池田先生は、地区部長会で語った。
「筑豊とは“豊かな地”を意味しているといえよう」
「信心は、心も豊かに、生活も豊かに、英知も豊かに、そして地域も豊かにしていく原動力です」
師弟の原点から40星霜――。功徳爛漫の春へ、筑豊の友は新たな師弟共戦の歴史をつづる。

池田先生は筑豊文化会館に到着すると、会館前の駐車場で出迎えた友のもとへ駆け寄り、「寒い中、本当にご苦労さま!」とねぎらいの言葉をかけた(1985年2月24日)