第12回 徳島・鳴門
24年12月18日
 
題目こそ人生の源泉
歴史と文化が融合する天地・徳島。渦潮で知られる鳴門は、ベートーベンの傑作「交響曲第9番」が、アジアで初めて演奏された地でもある。
第1次世界大戦下、現在の鳴門市にあった板東俘虜収容所で、捕虜のドイツ人が「第九」を全曲演奏した。
最終楽章で歌われる「歓喜の歌」は、ドイツの詩人シラーの詩に、ベートーベンが曲をつけたもの。“苦悩を突き抜けて歓喜へ”と、ベートーベンは苦悩の激浪を身に受けながら、この曲を完成させた。
列島に「第九」の調べが響くのは、師走の風物詩。池田先生が徳島を初めて訪問したのも、1960年(昭和35年)の師走のことである。明年、65周年を迎える。
同年12月6日、関西から船で渡り、小松島港に第一歩をしるし、徳島支部の結成大会に出席。「民衆と共に進む人こそ、真実の法を弘める仏法の指導者です」と強調した。
64年(同39年)11月、先生は2度目の徳島訪問へ。4日、徳島本部の幹部会で訴えた。
「喜びにも題目、悲しみにも題目、戦いにも題目、一切の人生の活動の源泉は、題目を唱えて唱えて唱え切っていく。これが、大聖人様の仏法の真髄であり、実践です」
さらに、地区部長・地区担当員会にも臨み、2時間にわたって質問会を通して激励。終了後には、参加者全員と握手を交わしている。
翌5日、鳴門の地を踏む。先生は同行の友と共に、鳴門山にある展望台に足を運び、渦潮を目にして語った。
「この渦は、まるで学会の正義の言論戦のようだ。仏と魔との戦いです。絶対に負けてはいけない」

1964年11月5日、徳島を訪問中の池田先生は鳴門へ。現在の千畳敷展望台へ足を運び、眼下に渦潮を望んだ

「歓喜の歌」と共に希望の大空へ飛翔
かつて先生は、つづった。
「徳島の同志が、希望の大空へ飛翔する時は、いつも『歓喜の歌』がともにあった」
第1次宗門事件の余燼がくすぶる81年(同56年)11月9日、先生は徳島を訪れ、記念勤行会に臨んだ。
席上、婦人部(当時)の若草合唱団が「歓喜の歌」を披露。日本語とドイツ語で見事に歌い上げた。
2日間の滞在で、先生は約4000人の友を激励。その後、舞台を香川に移す。
宗門僧らの謀略に対する本格的な反転攻勢の開始を告げたのが、この四国での激励行だった。徳島訪問は、その出発だったのである。
85年(同60年)4月14日、徳島青年平和文化祭が行われた。その冒頭を飾ったのは、青年部の「歓喜の歌」であった。
翌15日、先生は、徳島県代表者会議で、“徳島のルネサンスの夜明け”を開いた文化祭をたたえつつ、強調した。
「信心は、個人にあっても、また家庭にあっても、地域そして社会にあっても、勇気が必要になる。さらに正義の証明は常に『勇気』ある信心にしかない」
90年(平成2年)11月の本部幹部会で、池田先生は、創立65周年に5万人、創立70周年に10万人でベートーベンの「第九」の合唱を提案。“ドイツ語でもやろう”と呼びかけた。
だが宗門は、ドイツ語で「歓喜の歌」を歌うことは、キリスト教の神を賛嘆することであると曲解し、「外道礼讃」であると言いがかりをつけてきた。そこには、宗門の「文化否定」の体質が如実に表れていた。
徳島の同志にとって、「歓喜の歌」は、師弟共戦の凱歌でもあった。

大鳴門橋を渡り、池田先生は兵庫・淡路島から四国・徳島を望んだ(1994年12月)。群青(ぐんじょう)の海、紺碧(こんぺき)の空、緑の山々――先生はこの地を、詩心の国「詩国」とたたえた

「開かれた心」輝く ここが理想の天地
宗門から「魂の独立」を果たした3年後。94年(同6年)12月3日、先生は9年ぶりに徳島へ。この訪問の折、大鳴門橋を渡り、淡路島から四国の雄大な景色をカメラに収めた。
翌4日、第5回四国総会の意義を込めた、第1回徳島栄光躍進総会・「歓喜の歌」大勝利合唱祭に出席した。
この日を目指し、徳島では全地区で「歓喜の歌」の合唱運動を展開。約3万5000人が参加した。掉尾を飾ったのが、この大勝利合唱祭である。
席上、代表の友が「歓喜の歌」を合唱した。井上加容子さん(鳴門圏、女性部副本部長)もその一人だ。
夫の要さん(同圏、副支部長)の紹介で89年(同元年)に入会。生来、合唱が好きだった井上さんは、入会後、婦人部の若草合唱団のメンバーに。
練習会に参加する中で、「人を勇気づける歌は、技術の巧拙よりも、まず自分が生命力、歓喜に満ちあふれていること」と気付いた。学会の合唱団の根本は、自身の人間革命と学んだ。
2004年(同16年)、長年の対話が実り、母・山畠貴子さん(故人)を入会に導いた。
その後、立て続けに井上さんを病魔が襲う。10年(同22年)4月に緑内障の手術を。翌11年(同23年)には乳がんを発症。約10年間の闘病の末、寛解した。
強盛な祈りで、どんな宿命の嵐も朗らかに乗り越えてきた。現在、支部女性部長を兼任し、愛する鳴門に、幸のスクラムを広げている。
94年の総会で先生は、徳島で「第九」が初演された歴史について言及し、こう述べた。
「私が強調しておきたいのは、その背景に徳島の人々の『開かれた心』があったということである。徳島の清らかな心の庶民は、異国の捕虜に対しても傲慢に見下すことはなかった」
「これが徳島の人々である。まさに人格に『徳』が輝いておられる。徳島が、また四国が、どれほど素晴らしき理想の天地であることか」
総会が終了すると、先生は壇上から降り、同志のもとへ。一人一人の顔を胸中に刻みつけるように、声をかけながら、会場の中央から退場した。
最前列で参加していた蔭岡敏明さん(徳島本陣圏、本部書記長)は当時、男子部の部長を務めていた。
高校卒業を機に、大阪へ。慣れない1人暮らしだったが、常勝関西の創価家族が、温かく包んでくれた。
その後、故郷・徳島でパン屋を営むことに。40歳の時、今後の人生を展望し閉店。信心の先輩である坂上修さん(故人)の経営する、建築・不動産を扱う会社へ転職した。
これまでとは全く違う業種。行き詰まりを感じることもあった。だが、仕事も学会活動も一歩も引かなかった。
16年(同28年)1月、坂上さんの後を継いで、社長に就任。業界もコロナ禍や物価高の影響を受けているが、その中で、蔭岡さんは題目根本に、経営の指揮を執っている。
「歓喜の歌」大勝利合唱祭が行われる1カ月ほど前の94年10月、先生は徳島の友に「おお十万 歓喜の歌の 大合唱 広布の歴史と 世界に響かむ」と詠んだ。
合唱祭が終了した翌日には、「徳島の 広宣流布を 開きゆけ 歓喜と同志は 世界一かと」など3首の和歌を贈った。
合唱祭30周年の本年から、明「世界青年学会 飛翔の年」へ――師弟共戦の歓喜の大前進は、徳島から始まる。

1994年12月4日、「歓喜の歌」大勝利合唱祭を終え、池田先生は友の元へ(徳島文化会館で)。後に先生はつづっている。「まさしく一人ひとりの勝利の歌であった。正義に生きる凱歌であった。三世十方の仏菩薩にも響いていくであろう、『創価の勝鬨』の稲妻であった」