| 第11回 岡山・倉敷 24年11月26日 |
| 福運あふれる「春爛漫」の人生を 西日本広布の要である岡山県は、数多の師弟の歴史がつづられてきた地だ。中でも、倉敷市は岡山の“心臓部”である。 倉敷広布の源流は、1956年(昭和31年)の「大阪の戦い」にある。大阪支部が1万1111世帯の弘教を実現した同年5月、同支部の所属だった岡山地区は、999世帯の弘教を達成。「地区日本一」の拡大を成し遂げた。この時、倉敷の友も対話に奔走した。 同年8月、岡山地区は中国方面で初の支部に発展。10月8日には、池田先生が岡山を初訪問する。翌日、先生は岡山から山口・下関へ。「山口開拓指導」が開始された。倉敷からも多くの友が山口の地に駆けつけた。 先生は計22日間の滞在で、山口の会員世帯数を約10倍に拡大する快挙を成し遂げた。 75万世帯達成という戸田先生の願業を実現するため、東奔西走を続けた池田先生。先生と共に、岡山・倉敷の友は黄金の足跡を刻んだ。 倉敷支部の結成が発表されたのは、59年(同34年)11月8日に行われた秋季総会の席上だった。挨拶に立った先生は、恩師亡き後こそ大事であると強調。 「(戸田)先生の指導を真面目に最後まで言い切り、実践していくことこそが、誠の学会精神であり、地涌の菩薩の本懐である」と訴えた。 さらに13日、先生は岡山県営体育館(当時)で行われた支部結成大会に出席し、「経王殿御返事」を講義。一人一人が幸福になることを強く望んだ。 ![]() 1965年5月28日、倉敷会館(当時)初訪問の折、同志と談笑する池田先生。飾らない先生の姿に笑顔がはじけた 激励してあげたい それが私の念願だ 65年(同40年)5月28日、先生は倉敷会館(当時)を初めて訪問。開館式に出席し、参加者に親しみを込めて語りかけた。 「倉敷は、『倉』と『屋敷』があるのだから、一番裕福ですね。その根本は、やはり御本尊です」 「一日も早く倉敷にきて、皆さん方を激励してあげたい。それが私の念願だったのです」 ユーモアを交えて語る先生の言葉で、会場は温かな空気に包まれた。 先生は、倉敷の新たな出発に当たって、「諸法実相抄」を講義。「皆地涌の菩薩の出現にあらずんば唱えがたき題目なり」(新1791・全1360)の一節では、友の幸福を願い、確信を込めて訴えた。 「地涌の菩薩でなければ、絶対に唱えることのできない題目である。あとは自覚です」 「今日から、『大聖人の一門なのだ。弟子なのだ』『自分は地涌の菩薩なのだ。今世に不幸な人々を救いにきたのだ』と、こう確信しきって題目をあげ、学会活動し、そしてまた生活闘争をしていくことです。そうすれば、もっともっと力強い、福運ある人生を歩める」 この折、先生が贈った「春爛漫の倉敷たれ」との言葉は、同志の永遠の指針として刻まれている。後にこの日は、「倉敷の日」と定められた。 以来、先生の倉敷訪問は5回を数える。76年(同51年)3月17日、倉敷会館で行われた倉敷支部結成17周年を記念する集いに出席。“先師・恩師への大恩を胸に、求道と感謝の人間の王道を歩み抜いてほしい”と強調した。 94年(平成6年)11月30日には、倉敷南文化会館を初訪問。今月、30周年を迎える。 この日、広島での激励行を終えた先生は、新幹線に乗車し、新倉敷駅に到着。四国に向かう予定を変更し、76年3月以来となる18年ぶりの倉敷訪問が実現した。 ![]() 倉敷南文化会館を初訪問した池田先生。会館南側に広がる瀬戸内海を、「いいところだね」と。鷲羽山、瀬戸大橋を望みながら、写真に収めた(1994年11月30日) 財宝の心は日本一 大景観は世界一と 新倉敷駅に降り立った先生は市内を回り、倉敷南文化会館へ向かった。会館に到着後、館外へ歩き出した。すぐそばの堤防まで行くと、男子部の有志が手作りした階段を見つけた。 先生は、「わざわざ、つくったの?」「立派だね」と言いながら、堤防の上へ。そこで金波・銀波に輝く、瀬戸内海をカメラに収めた。 会館に入ると、倉敷圏・倉敷南圏(当時)の代表らと勤行を行い、同志の健康・長寿・幸福を深く祈念。さらに、和歌を詠み贈った。 「財宝の 心は倉敷 日本一 大景観は 世界一かな」 「大倉と 美麗な屋敷は 三世まで 生命に留めむ 王者のあなたは」 わずか2時間ほどの滞在だったが、先生は役員をはじめ、当時、倉敷南圏長であった岩間一博さん(故人)らにも声をかけ、温かな励ましを送った。 藤森正さん(倉敷総県副総合長)は、当時、倉敷圏長を務めていた。岡山は、第1次宗門事件で暗躍した反逆者の出身地。藤森さんはその悔しさを胸に、“わが地域の三変土田を必ずしてみせる!”と、同志の激励に駆け回り、「福運と功徳の実証を」と訴え続けた。 母子家庭で育ち、中学校を卒業後、就職。苦学して、中小企業診断士、行政書士などの資格を取った。60歳を超えてから、大学院でMBA(経営学修士)を取得した。 89年(平成元年)に設立した会社の代表取締役を務め、現在、仕事場でもある自宅を、広布の会場に提供している。 藤森さんの心は、“さらなる報恩の戦いを”との決意に燃えている。 先生が倉敷南文化会館を訪問した時、倉敷圏で婦人部長を務めていた井上節代さん(倉敷総県女性部総主事)。60年(昭和35年)、集団就職で山口県から倉敷へ。同僚から仏法の話を聞き、信心を始めた。ところが、周囲の反対に遭う。 もともと気が弱く、自分に自信が持てなかった。しかし、同志の励ましを受け、信心については一歩も引かなかった。誠実を貫き、仕事にも、学会活動にも一生懸命に励み、信頼を築いていった。 2022年(令和4年)9月、最愛の母と妹を立て続けに亡くした。自身も目の手術を受けた。試練の嵐に、宿命転換を決意。本紙の購読推進を実らせるなど、対話拡大に挑み抜いた。 “勝つことよりも負けない人生”を胸に、一切の苦難を勝ち越えてきた井上さん。胸中の師匠と対話しながら、共戦の大道を朗らかに進み続ける。 かつて先生は、岡山の同志に、「限りなき前進の岡山」とのモットーを贈った。この言葉のまま、岡山の同志は、自身の人間革命に挑み、前進また前進の歴史を築いてきた。 22年11月、先生は新たな指針を友に贈った。 「限りなき前進」の岡山家族 新たな誓いで前進! 新たな力で拡大! 新たな人材で凱歌! 今、清新な誓いで新たに出発した岡山の同志。「旭日の岡山」から、師弟勝利の凱歌の鐘が鳴り響く! ![]() 1994年11月30日、池田先生は岡山・倉敷南文化会館で、地元の同志と勤行を行った。師の深い祈りに包まれて、同志は新たな前進を誓った |