第8回 鹿児島・霧島
24年8月28日
 

霧島の九州研修道場(当時)から彼方を望めば、雲海に桜島が威容をのぞかせる(1990年10月、池田先生撮影)

明治維新の英傑を生み出した歴史回天の舞台の一つである鹿児島。池田先生が初めてこの地を踏んだのは、1958年(昭和33年)8月23日である。
汗を拭いながら、先生は同志の心を鼓舞した。同日の指導会では、「夫れ、雪至って白ければ、そむるにそめられず」(新1951・全1474)との一節を拝し、信心の姿勢について強調。「混じりっけのない純真な信心を貫き、御本尊と学会を信じるんです」と訴えた。
さらに、「信心とは、希望と確信と勇気、そして実践です」との指針を示した。
翌24日の入信記念日には、錦江湾に浮かぶ桜島を訪れ、青年と懇談。この日から鹿児島広布は加速度を増していく。以来、先生の鹿児島訪問は23回にのぼり、そのうち17回、現在の霧島市を訪れている。
山紫水明の自然に恵まれた霧島には、かつて九州総合研修所(当時)があった。本部幹部会や各部の研修会、世界の友との交流……。幾つもの師弟のドラマが、この場所で生まれた。

1983年7月28日、霧島の大自然に包まれて行われた未来部の野外研修

祈りこそ挑戦の原動力
霧島の同志の原点は、76年(同51年)8月の訪問である。19日から霧島を訪れた先生は、連日、各種行事へ出席。その合間を縫って友と語らい、希望を送った。
この年の8月24日は、先生の入信29周年。そして、創価学会として初めて迎える「壮年部の日」でもあった。
先生は、その記念の日を選んで、研修所の整備や清掃に尽力する国分と清水総ブロック(当時)の友のもとへ向かった。
午後6時前、先生は清水総ブロック長を務めていた吉元喜三郎さん宅を訪れ、家族を激励。その後、時任久雄さんの家で行われた、国分・清水総ブロック合同の代表者勤行会へ。こう訴えた。
「たとえ、どんなに苦しい時も、御本尊への信を奮い起こし、“絶対に負けるものか!”と、唱題し抜いていくんです。そうすれば、苦難に立ち向かう勇気が湧きます。生命が躍動し、歓喜が込み上げてきます。そこから、すべての状況が開かれていくんです」
この日、先生と出会いを刻んだ吉元さんの娘婿である森勇さん(国分常勝圏・副本部長)。「48年前のことですが、先生の大きな境涯に触れた感動は、今も決して忘れることができません。私の生涯の“宝”です」
男子部のリーダーを務め、社会で実証を示そうと奮闘してきた。現在、長年培った人脈を生かし、コンサルタント会社を起業。周囲の信頼も厚く、地域の自治会では要職を担う。
昨年8月、妻の知子さん(同・地区副女性部長)が不慮の転倒により頭部を強打。検査の結果、医師から、くも膜下出血の危険を告げられた。
時を同じくして、仕事でも困難な壁が立ちはだかる。入退院を繰り返す妻を支えながらの奮闘に、次第に行き詰まりを感じるようになった。
そのたび、師匠との原点に立ち返り、勤行会での指導を思い返した。“今こそお題目で一切を乗り越えよう!”と一念発起。御本尊に向かい、強盛に祈りを重ねる中で、仕事は好転。知子さんのこれまでの献身的な支えに深く感謝しながら、夫婦共に前を向いて進んでいる。
毎年、8月24日には、男子部で共に戦った仲間と集まり、誓いを新たにしてきた。今、森さんの心は、霧島の未来を担う後継の育成に燃えている。
76年8月の入信記念日に2軒の会員宅を訪れた先生は、同行の友にこう語った。
「8月24日――この日に、会員のお宅を回ることができた。一番大事なことができたと思っている。幹部は、どんなに忙しくとも、第一線の同志のことを、片時も忘れてはならない。常に、同志に会い、激励し続けるんだ」

鹿児島の国分・清水総ブロック(当時)合同の代表者勤行会で、同志を激励する池田先生(1976年8月24日)。「いつも、大変にお世話になっております。ありがとうございます」と最大の感謝を表した

君が学会の運命を担う
東洋広布を熱願した戸田先生は、57年(同32年)10月13日、九州総支部結成大会で、九州の同志にその実現を望んだ。
不二の弟子である池田先生は、恩師の思いを胸に刻み、九州の友に世界広布に先駆することを訴えてきた。
79年(同54年)2月1日、インド訪問を前に先生は、小雪が舞う霧島の研修道場で、九州記念幹部会に出席した。
会合の終盤、“先生の訪印を慶祝したい”と、婦人・女子部合同の合唱団が、「東洋広布の歌」と「インド国歌」を披露。合唱が終わると先生は、インド国歌の歌詞になぞらえて、「私たちも、この心意気でいこうよ! 『きみこそ 学会の運命担う 心の支配者』だよ」と力強く呼びかけた。
折しも第1次宗門事件の嵐が吹き荒れていた。宗門の悪僧らによる広布破壊の謀略が渦巻く中、先生は同志の胸中に希望の灯をともし続けた。
翌2日、先生は3年ぶりに時任さん宅を訪問し、懇談の場を持った。森益子さん(国分常勝圏・支部副女性部長)は、この時、先生と共にカメラに納まった写真を大切に保管している。
創価家族の優しさに包まれて、真っすぐに信心の道を歩んできた。先生の霧島訪問では、「霧島会」の一人として、行事運営の役員を務めた。
懇談の席で、先生から「お母さんのこともよく分かっているよ。大事にしてよ」と声をかけられた。森さんは「先生、どうか、お身体を大切にしてください」と。すると、先生は感謝しつつ「祈ってね」と優しく返した。その温かな一言は森さんの耳に、全てを包みこむ“慈父”のような姿は眼に、今も鮮明に残っている。
2カ月後、森さんは会長辞任の報を、ラジオのニュースで聞く。あふれる涙をこらえきれなかった。だが、“先生、私は負けません”と不退を誓った。
「人と会うのが大好き」と語る森さん。これまで、霧島広布の第一線を担ってきた。本年上半期も学会理解の輪を大きく広げ、本紙の購読拡大を推進。また、地域の子ども食堂に携わり、地域貢献の行動を重ねている。
かつて先生は、鹿児島の青年に語った。
「明治維新よりも何倍、何十倍もの偉人が、一流の人が、大指導者が、この地から出ていただきたい!」
歴史回天の天地・鹿児島を舞台に、先生は幾人もの“広布の革命児”を育んできた。師の万感の期待を胸に、鹿児島の友は、21世紀を乱舞する。

1979年2月1日、九州記念幹部会の席上、池田先生は同志への励ましをピアノの音色に託した(九州研修道場〈当時〉で)