第7回 静岡 伊豆・伊東 24年7月31日 |
![]() 銀色の光が輝く伊東の大海原(1993年12月、池田先生撮影)。先生は「伊東から望んだ海には、荘厳さがある。歴史があり、光がある。表現しえぬ詩がある」と語った 苦難は“栄光の人生”の滋養 青い海と緑豊かな山々。美しい景観が広がる伊豆半島は、多くの人々を魅了してきた。 池田先生にとって伊豆は、若き日に戸田先生と共に、たびたび訪れた地である。 1950年(昭和25年)12月2日、二人で伊東に向かう電車の中、戸田先生は御書を開き、観心本尊抄の講義をした。その際、窓の外を見つめ、「あの太平洋のような境涯で、御聖訓を拝していくことだ」と語った。当時は戦後の不況によって戸田先生の事業が行き詰まる中、難局の打開に奔走していた時期であった。 また伊豆は、43年(同18年)7月6日に、牧口先生が治安維持法違反・不敬罪の容疑によって逮捕された地である。4日前から、牧口先生は仏法対話のため、伊豆を訪れていた。 官憲に捕らわれた先師は、同志と別れる際、「戸田君によろしく」と託した。だが、戸田先生もまた、同じ日に東京・目黒の自宅で逮捕された。 過酷な獄中闘争の末、44年(同19年)11月18日、牧口先生は老衰と極度の栄養失調により、拘置所内の病監で逝去。出獄した戸田先生は、先師の正義を証明すると誓い、戦後、学会再建の歩みを開始した。 47年(同22年)1月、戸田先生は戦後2回目となる地方指導で、伊豆方面に赴いた。戸田先生は下田で行われた座談会に出席。この時に入会した女性は、生涯で約300人に仏法対話を実らせた。 戸田先生は同年7月にも下田、蓮台寺方面を訪問。さらに、翌48年(同23年)1月にも下田に足を運び、同志の激励に力を注いだ。 戸田先生が幾度も伊豆を訪れたことについて、池田先生はこう語っている。 「伊豆に足を運ばれた戸田先生の胸中に、いかなる思いが去来していたか。それは、伊豆・下田の地で官憲に検挙された恩師牧口先生への追憶であり、そのお姿であったにちがいない」 ![]() 伊豆広布40周年を記念する代表幹部会(1987年11月23日、伊東平和会館<当時>で)。池田先生は、大海のごとき信心の境涯で、妙法に則(のっと)った確たる人生の歩みをと望んだ 何でも良い方向に捉えて 伊豆の伊東は、1261年(弘長元年)5月12日、日蓮大聖人が流罪された地。その時、16歳の日興上人も富士方面から駆け付け、大聖人と苦楽を共にされた。 池田先生は伊東を何度も訪問している。1987年(昭和62年)6月20日には、伊東市の静岡第2研修道場(当時)の開館記念勤行会に出席。「美しき自然に恵まれた伊豆の大地に、輝く広布と幸の城を築いてほしい」と語った。 勤行会の後、代表のメンバーと懇談を。林早苗さん(伊豆源流県女性部主事)は、この時の励ましの言葉が人生の指針となった。 会場後方の席に座っていた林さんに先生は、「何でも良い方向に捉えていくことが大事だよ。その人生は、自分も楽しいし、周りの人も楽しくすることができる」と語りかけた。 林さんは「この時以降、物事を悲観的に捉えそうになる場合にはいつも、“そうじゃない。必ず意味があることだ”と自分に言い聞かせながら進んできました」と。 林さんが信心を始めたのは、62年(同37年)。入会当初は学会活動に積極的ではなかった。 結婚後、第1子である長女が高熱を出し、何日も下がらなかった。信心をしていた夫の勧めで、御本尊の前に座った。 “わが子を断じて守る!”。母の一念に呼応するかのように、長女の熱は下がった。その後、3人の子どもに恵まれた。3人とも病魔に襲われたが、全て克服した。 林さんは歓喜と感謝を胸に、学会活動に挑戦した。悩みを抱える友に寄り添い、自らの体験を通して、信心の喜びを語ってきた。 自宅を広布の会場に提供。地域の絆を長年にわたって大切に育んだ。先月の教学部任用試験(仏法入門)には、2人の友人が受験。一緒に研さんに励み、2人とも合格した。 師が示した指針のままに進む。それ以上の誉れの人生はない――その歓喜と確信が、林さんの胸中にみなぎっている。 ![]() 1本の白い軌跡が残る大空に向かい、池田先生がシャッターを切った(1988年5月、伊東市内で) 永遠に大法有縁の国土 1987年(昭和62年)11月23日、伊豆広布40周年を記念する幹部会が伊東平和会館(当時)で行われた。池田先生は語った。 「難に耐え、難と戦うなかに、信心の深化と開花があり、広布への前進がある」 「四十代、五十代、六十代となって、堂々たる大樹と大成するか、それとも弱々しい、かぼそい木のまま朽ちはてるか。その岐路は、人生の困難とどう取り組んでいくかという一点にある」 そして、「すべては、光輝満つ“栄光の人生”の完成への滋養であり、屹立した“勝利の人生”の軌道を進むための推進力になっていく」と述べ、「伊豆、伊東の地は、永遠に“歴史”と“名誉”と“栄光”に輝く大法有縁の国土である」と強調した。 須長忠さん(伊豆源流県主事)は、席上、先生から直接、聖教文化賞を授与された。当時、建設業を営みながら、本部長として広布の最前線で奮闘していた。 「『有縁の国土』との一言に胸が熱くなりました。先生が万感の思いを寄せられる伊東で戦う使命の深さをかみ締めました」 師の励ましを広布拡大の誓いに変えて、同志と対話に駆けた。その一切が、今では金の思い出だ。 この10年、腰椎の圧迫骨折、大腸がんなど、幾つもの試練に遭った。工事現場でアスベスト(石綿)にさらされていた影響で肺の機能は低下。脳梗塞を2度、発症した。 次々と襲いかかる病魔にも、須長さんの心は広宣流布から一歩も退くことはなかった。自他共の幸福を祈り、体調を整えては、太陽会のメンバーの激励に歩いた。今も「栄光の人生」の軌道を進み続けている。 伊豆広布40周年記念幹部会の席上、先生は訴えた。 「この伊豆から見る太平洋のごとき壮大なる自身の境涯を開いてまいりたい」 師弟の誓いに生き、師から託された広布の責任を果たす。その戦いの中で、人間王者の境涯が開かれていくことを、伊豆・伊東の「有縁の国土」の友は深く知っている。 ![]() 池田先生が伊東会館(当時)を訪問し、居合わせた友を激励(1974年7月2日) |