第5回 東京・氷川
24年5月31日
 
永遠なる広布の歴史に輝いていく

輝くような青き渓流が、東京・氷川の山あいを下る(1984年5月、池田先生撮影)

青々と茂る緑の木々、清流のせせらぎ、澄み渡る空。東京・奥多摩町の氷川――現在、氷川東京青年研修道場内に立つ「水滸乃誓」の碑文にこうある。
「氷川こそ創価の源流 師弟不二の縁脈打つ天地なり」
奥多摩地域は、創価の三代会長との縁が刻まれた天地だ。
学会創立の年である1930年(昭和5年)9月、小学校の校長を務めていた牧口先生は、教員らと共に青梅方面を視察に訪れ、御岳渓谷に足跡をしるした。その折、多摩川上流の楓橋で記念のカメラに納まった。
54年(同29年)9月には、氷川のキャンプ場で、池田先生を中心とする青年たちが戸田先生を囲み、男子部の人材育成グループ「水滸会」の第1回野外研修が行われている。
この氷川の地に、「氷川池田青年研修塾」が落成したのは82年(同57年)8月のこと。「青年の手作りで」との池田先生の提案を受け、約4000人の青年が整備に携わった。
翌83年(同58年)5月4日、開館1周年を記念する集いが開かれた。同研修塾へ向かうバスの中で、先生は「氷川は忘れることができないんだ」と何度も口にした。少年時代、遠足で奥多摩を訪れている。
記念の集いで先生は語った。
「妙法の歴史は、そのときは小さなように思えるかもしれない。しかし、時を経れば経るほど深化され、拡大され、永遠性をはらんでいくものだ。この日の集いも、また皆さん方も、永遠なる広布の歴史のなかに輝いていくに違いない」
そして、「ありがたき 門下の君らが 真心で つくりし歴史の 師弟の家かな」などと詠み、後継の奮闘をたたえた。

東京・奥多摩町の氷川東京青年研修道場にある「水滸乃誓」の碑

「水滸乃誓」の碑文

難あるごとに“一人立て”
水滸会の第1回野外研修から30周年の佳節であった84年(同59年)の5月4日、池田先生は前年に続き、氷川池田青年研修塾を訪問した。
設営グループ「栄光会」のメンバーを中心に、第2研修道場が建設され、先生はその開館記念勤行会に出席した。
若人たちに、先生は力を込めて訴えた。
「一切は後継の人材いかんで決まるものだ。人材というものは組織の中で、やがて自然に育っていくものという考えは安易すぎる。心血を注ぎ、体当たりで青年たちを触発せしめゆく以外に、真実の手作りの人材は育ってこない」
「戸田先生は常に“一人立て”と教えられた。私も難あるごとに“そうだ、一人立てばいいのだ”と深く決意した。これが水滸会の精神である。戸田先生が青年に教えられた第一義の課題であった」
その後、多摩川の河原で懇談会が行われた。先生は青年たち一人一人に近況を尋ね、質問会の時間を持った。キャンプファイアを囲み、豚汁を味わいながらの師弟の語らいは、約1時間にわたった。
会場設営の責任者だった岡部増雄さん(青梅池田区・副本部長)。「戸田先生と池田先生の『水滸会』の野外研修を再現したかった」と振り返る。
1カ月ほど前から準備に当たった。“先生に少しでも喜んでいただきたい”とマス釣りも企画した。
妻のいずみさん(同・女性部副本部長)は、2人の子どもを連れて、役員に就いていた。
岡部さん夫婦が信心の力を実感したのは、長男が誕生した時。77年(同52年)4月27日に生まれた長男は、1610グラムの低出生体重児だった。
医師から「障がいが残るかもしれません」と告げられた。岡部さん夫婦は必ず題目で乗り越えよう、と誓った。
御本尊の前に座っていても、不安が頭をよぎる時もあった。その弱い心をたたき出すように、2人は強盛に祈り続けた。
当初、入院は3カ月を予定していたが、1カ月で退院。障がいが残ることもなかった。
師への感謝を片時も忘れず、岡部さん夫婦は氷川広布の第一線を走り続けた。その熱き心は、今も赤々と燃えている。

「水滸会」の第1回野外研修30周年を記念し、多摩川の河原で行われた懇談会(1984年5月4日、東京・氷川で)。“師匠に喜んでもらいたい”――青年たちの真心が光った

焦らず仲良く我らが理想郷を
95年(平成7年)9月18日、氷川池田青年研修塾が新たに、氷川東京青年研修道場としてオープン。直後の22日、先生は同道場に足を運んだ。
11年ぶりの氷川訪問。友の歓喜が弾けた。懇談の場で、先生は万感の思いを語った。
「人生は、心ひとつで百八十度、変わる。“精神性の世界”である信仰の世界では、なおさらである」
「様々な行動も『また福運をつけていこう』『また体を丈夫にしよう』という一念をもって、喜んでやれば、『さいわいを万里の外よりあつむべし』(全1492・新2037)と仰せの通りの人生となる」
「青梅は青梅らしく、焦らず、仲良く、自分たちの力で、自分たちの満足できる、“我らが理想郷”を堂々とつくっていただきたい。同志とともに、地域の方々とともに、晴れ晴れと、よき人生を送っていただきたい」
青梅の青年部長だった井戸川哲也さん(青梅総区総合長)は、その時の感動を鮮明に記憶している。
「先生は私たちの言葉に耳を傾け、包み込むように励ましてくださいました」
翌96年、壮年部に移行し、支部長として対話拡大に奔走した。当時の支部は21ブロックの大所帯。師が語った「仲良く」との指針を胸に、各部が団結し、支部として初めて「ブロック1」の弘教を成し遂げた。
その後、本部長、区長、総区長と重責を担ってきた。池田先生への限りない感謝を忘れず、広布の第一線を走り続ける。
福田明子さん(青梅総区女性部長)も、氷川東京青年研修道場での師との出会いが、生涯の原点だ。
懇談の場で、先生は「地元の名産は何ですか」と尋ねた。友から、「美味しいこんにゃく」との答えが返ってきた。すると先生は、「題目の名産地にしよう!」と。
師の言葉を、福田さんは心に深く刻んだ。創価の母として青年たちを温かく育みながら、あらゆる広布の戦いを、題目根本で勝ち開いてきた。今、「我らが理想郷」を目指し、池田華陽会の友らとスクラム固く、前進を続ける。
本年は、水滸会の第1回野外研修から70年。そして、84年5月の氷川訪問から40年を刻む。「師弟誓願の天地・氷川」の友の、新たな師弟旅が始まる。

1995年9月22日、氷川を訪問した池田先生。83、84年に出会いを刻んだ岡部増雄さんの両親・城助さんとミネさんに再会した

氷川東京青年研修道場を初訪問した池田先生は、同志と懇談(1995年9月22日)。「忘れまじ 師弟乃思い出 氷川かな」と贈った