第3回 沖縄・南部戦跡 24年3月2日 |
憧れの幸福島に!![]() 沖縄県平和祈念資料館から、太平洋と「摩文仁の丘」を望む。丘の手前には、沖縄戦などで亡くなった人々の氏名が刻まれた記念碑「平和の礎(いしじ)」が並ぶ(沖縄・糸満市で) 1960年(昭和35年)7月16日、池田先生は沖縄の地に第一歩を刻んだ。終戦から15年、沖縄は米国統治下にあり、核ミサイルの配備まで進んでいた。 先生は、17日に行われた沖縄支部結成大会で、広宣流布とは、世界平和を実現するものであると強調した。 翌18日、沖縄のリーダーら数十人と共に、バスで向かったのが、現在の糸満市にある「南部戦跡」である。 真夏の日差しが降り注ぐ季節。車内には、氷柱が積み込まれていた。少しでも涼しくなればとの、メンバーの真心によるものだった。 最初に訪れたのは、「ひめゆりの塔」。戦時下、乙女たちが非業の最期を遂げた地で、先生は厳粛に祈りをささげた。 同行しながら、その日の様子をカメラに収めていた久保田淑子さん(那覇池田県女性部主事)は、こう証言する。 「学徒隊の慰霊碑である『健児之塔』を視察した際も、先生は、塔の前で題目を三唱されました。そして、『皆さんの尊い犠牲は無駄にはしません! 必ず沖縄を仏国土に変えてみせます!』と力強くおっしゃいました。その気迫に、私たちも奮い立ちました」 一行は沖縄戦終焉の地である「摩文仁の丘」にも足を運んだ。移動の道中、先生は露天で商売をしている同志や、駆け付けた友に気さくに声を掛けていった。 摩文仁の丘には、若い母親が子どもを抱えて海に身を投げた断崖がある。その説明を聞くと、先生は語気を強めた。 「残酷だ! 戦争ほど残酷なものはない!」 視察を終えた先生は、周囲に集まった同志に呼びかけた。 「仏法には三変土田という原理がある。そこに生きる人の境涯が変われば、国土は変わる。 最も悲惨な戦場となったこの沖縄を、最も幸福な社会へと転じていくのが私たちの戦いだ。やろうよ、力を合わせて」 「はい!」という意気軒高な声が響いた。沖縄の同志は“わが使命の天地を、平和と幸福の仏国土に”と、立ち上がった。 戦争ほど、残酷なものはない 本山多津子さん(沖縄総県女性部主事)は、60年7月17日の沖縄支部結成大会で、当時の女子部の責任者となり、南部戦跡にも同行した。 「当時、私たちは、目の前のことで精いっぱいの毎日でした。沖縄こそが、世界平和の使命の天地であるとの先生の思い。その深さは、時がたつにつれ、分かるようになりました」 沖縄初訪問から2年後の62年(同37年)7月、池田先生は再び南部戦跡を訪れ、平和を深く祈念。64年(同39年)、4度目の沖縄訪問の足跡をしるした先生は、12月2日、沖縄本部(当時)の2階でペンを執る。 「人間革命」「第一章 黎明一」と原稿用紙に記すと、手が止まった。冒頭の言葉が、決まらなかったのである。 この時、思い起こしたのが、視察を重ねた沖縄の南部戦跡だった。若き日の戦時中の記憶がよみがえるとともに、獄を出て、廃虚と化した街を初めて目にする恩師・戸田先生の心中に思いをはせていった。 その時、ある言葉が浮かんだ。 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた……」 創価の平和の魂がとどめられた、小説『人間革命』の冒頭の一節が誕生したのである。 新垣昇さん(沖縄総県総主事)には、師弟の大きな原点がある。 69年(同44年)2月、沖縄に滞在中の先生は、新垣さんに小説『人間革命』第1巻を贈る。新垣さんは、沖縄男子部の責任者だった。 本の扉には、「池田門下の誉れも高く 白馬に乗り前進を」との万感の言葉が、ペンで勢いよく記されていた。 当時、『人間革命』は第4巻まで出版されていたが、沖縄の地で起稿されたことは、まだ一部の人しか知らなかった。 「先生が贈呈してくださった第1巻が、沖縄で書き起こされた事実を後年知り、心が震えました」 新垣さんは、『人間革命』に込められた師匠の思いをわが心とし、広布に駆けていった。 ![]() 「世界平和の碑」の前で、未来部員を激励する池田先生(1991年2月、恩納村の沖縄研修道場)。かつて米軍の核ミサイルの発射台だったこの場所は、先生の提案により、平和の発信地に生まれ変わった 平和の旗を掲げて 民衆凱歌の先陣を 「私は 沖縄を詩う 私は 沖縄を愛する 私は 沖縄に涙する」 88年(同63年)2月、池田先生は、沖縄の同志に長編詩「永遠たれ“平和の要塞”」を贈った。 そこには、初めて南部戦跡を訪れた折、戦争のない世界の構築と、小説『人間革命』の筆を沖縄の地で起こそうと誓ったことがつづられている。 砂川則子さん(沖縄平和県・女性部副本部長)は、結婚後、糸満市の南部戦跡がある地域に転居。支部婦人部長(当時)などを歴任してきた。 母親の伊沢ナツさん(故人)は、先生の南部戦跡の視察に同行した一人である。 母は娘に口癖のように語っていた。 「私たちは、先生の沖縄への思いに応えなきゃいけないの」 師匠が平和を叫び抜き、母親が師弟共戦を誓った使命の天地で、広布を推進できることが、砂川さんにとっての何よりの誇りである。 「南部戦跡で、また長編詩などで先生が示してこられた“平和の精神”を、後継の世代に伝え続けていきたい」 夫の金次郎さん(同・副本部長)と共に、地域の発展に尽力してきた砂川さんは、創価後継の育成にも力を注ぐ。 先生は、沖縄の友に訴えた。 「うるま島に躍動する若き君たちよ! 心清き女性たちよ! 憧れの幸福島の地涌の同志たちよ! この『沖縄広布の炎』を赤々と燃え上がらせ、今再び、平和の旗を高く掲げ、偉大な民衆凱歌の先陣を切ってくれ給え!」 沖縄では今月、平和と希望のメッセージを発信する「OKINAWA未来祭」が開催される。世界を明るく照らす友情と平和の光が、沖縄の地から広がっていく。 |