第2回 琵琶湖 2024年2月10日 |
よどむことのない真っすぐな信心を![]() 青く輝く琵琶湖の湖面。池田先生が、滋賀文化会館からの景色をカメラで収めた(1995年10月) 日本最大の湖である琵琶湖。そのほとりで、数々の共戦譜がつづられてきた。 1959年(昭和34年)3月23日、総務として学会の実質的なかじ取りを担う池田先生は、初の滋賀指導へ。同日午後、琵琶湖を望む大津駅に到着した。 春風には、まだ冷たさが残っていた。 夕刻、先生は大津市内で「妙一尼御前御返事」の講義を行い、こう訴えた。 「信心というのは、特別に難しいものではありません」 「子どもが母親から離れないように、南無妙法蓮華経を唱えることを信心というのです。瞬時も捨てないで、実行していくのです」 立脇澄男さん(大津本陣圏主事)は、当時、役員として先生から激励を受けた一人だ。 「先生は、“琵琶湖の水もよどんでしまえば汚れてしまう。信心もよどまないよう、真っすぐに”と指導されました。師弟直結の純真な信心を誓いました」 この日、先生は琵琶湖畔に宿泊。翌朝、指導を受けようと、滋賀の同志が訪ねてきた。 先生は一緒に湖のほとりを散策しながら、励ましを送った。 立脇さんの夫人の信子さん(同圏女性部主事)は、その時の先生の真心を忘れない。 「先生は熱があったご様子で、私たちも申し訳ない思いでいっぱいでした。先生は集まった皆をカメラで撮影し、後日、幹部の方を通じて写真を届けてくださったのです。こまやかな配慮に、感動を覚えました」 先生の真心の滋賀指導から、広布の水かさが増していった。 人材育成の理想的な天地 ![]() 琵琶湖畔で同行のリーダーと語り合う池田先生(1989年4月) 牧口先生は『人生地理学』の中で、琵琶湖を富士山と並ぶ「我邦の双美」とたたえ、“湖の美景は、青年たちに世界雄飛の気宇を涵養する”と論じている。 戸田先生は語った。「いつか琵琶湖のほとりに青年の研修の場をつくりたいものだな。牧口先生も喜んでくださるだろう」 先師、恩師の言葉を心に刻んだ池田先生は、次代を担う若きリーダーの育成の場を築こうと心に決めていた。 そして71年(同46年)9月、琵琶湖畔に、待望の滋賀研修道場(米原市)が完成。5日、先生を迎えて、第1回「琵琶湖フェスティバル」が敷地内で行われる。 高等部員による「琵琶湖周航の歌」を聞いた先生は、「もう一度みんなで歌おう」と提案。何度も合唱し、師子の絆を結んだ。 後に滋賀の男子部長などを歴任した利倉章さん(滋賀総県副総県長)は、「熱原の三烈士」の演劇に出演。「琵琶湖フェスティバル」を通じて、高等部の仲間と共に、師匠を求め抜く求道心の大切さを学んだ。 「当日、未来部員に対して、真剣に励ましを送ってくださる先生の姿に触れ、強い決意が湧き上がりました」と振り返る。 利倉さんは師との原点を胸に、大学に進学後、教員の道へ。校長等を歴任し、その取り組みが教育雑誌で取り上げられたこともある。“生徒のために”との姿勢を貫き、教育者として大きく信頼を広げてきた。 「琵琶湖フェスティバル」は、その後、滋賀の伝統行事として回を重ねていく。「未来祭」と名称を変えた後は、未来部員が一堂に会し、成長を誓う恒例行事に。滋賀の未来部育成は、全国の取り組みの先駆けとなった。 「滋賀こそ、人材育成の理想的な天地」――湖国の友は、先生が示した指針を実現しようと、後継者育成に全力を注ぐ。 反転攻勢の中で結んだ友との絆 ![]() 「月の沙漠」「さくら」“大楠公”等々――友を励ますため、次々とピアノを奏でる(1981年11月24日、滋賀研修道場で) 81年(同56年)11月の関西指導の折、池田先生は23日に滋賀研修道場に足を運んだ。会長辞任から2年半、四国で反転攻勢が宣言された直後のことである。 創価の師弟を分断しようと画策する第1次宗門事件の嵐に、滋賀の同志は負けなかった。 翌24日、2回の自由勤行会が行われ、2500人以上の友が師との出会いを結んだ。 当時、婦人部の本部長だった油布章子さん(滋賀総県女性部総主事)は、3人の子どもを連れて会場へ。 「米原駅から多くの人が研修道場に向かっていたことを、鮮明に覚えています。皆が先生を求めていました」 風雨を乗り越え、先生と同志の絆は強まっていった。 琵琶湖畔は、先生の反転攻勢のドラマだけでなく、執筆闘争が刻まれた舞台でもある。 89年(平成元年)の4月15日から21日までの1週間、滋賀研修道場に滞在。その初日、先生は滋賀のリーダーに語った。 「いっぱい仕事を持ってきたんだよ」 仕事とは、原稿の執筆だった。 「琵琶湖を見ていると頭がきれいになる」 先生は執筆のさなか、香峯子夫人にこう心中を吐露する。 執筆闘争の傍ら、会合や懇談にも出席し、激励を重ねた。同年の滋賀指導は、折しも、先生の会長辞任から10年の節目だった。破邪顕正の弟子の戦いを繰り返し強調した。 最終日の21日、先生は記念撮影を行う中で、「原稿できたよ。ありがとう」と友に伝える。 2カ月後に予定されていた、フランス学士院芸術アカデミーの講演原稿が完成したのだ。 この時、滋賀の婦人部長を務めていた油布さんは、師の激闘が頭に焼き付いている。 「執筆や会合の合間を縫って、役員との記念撮影など、陰で奮闘するメンバーを、どこまでも大切にされていました。先生の姿に皆が奮い立ちました」 琵琶湖のほとりには、県の中心会館である滋賀文化会館(大津市)も立つ。95年(同7年)10月、先生は同会館を訪問。“素晴らしい「琵琶湖の時代」「滋賀の時代」を”と呼びかけた。 来月23日、先生の初の滋賀指導から65周年を刻む。3・23「滋賀師弟原点の日」へ、滋賀の同志は、後継の青年育成と、師恩に報いる対話に駆ける。 |