| アジアへ① 26年3月3日 |
| 〈人間主義の系譜 仏法の源流を見つめて〉 アジアへ① 2026年3月3日 悠久なる大河も、源流の一滴から始まる――釈尊から法華経、日蓮大聖人、そして創価学会へと至る人間主義の系譜。世界に広がる民衆仏法の源流をたどりたい。ここでは、釈尊の入滅以降における教えの継承について見ていく。(教学解説部編。月1回掲載。前回は2月10日付) 仏教思想家の活躍 中観派・唯識派の二大学派に 前回まで、大乗仏教の精髄である法華経の思想について取り上げてきた。今回は、インドの仏教がアジア世界に伝播していく流れを見ていく。 法華経をはじめ、インドで生まれた仏教は、中央アジアのオアシス都市を経て中国へと伝えられた北伝と、現在のスリランカやタイ、ミャンマー、カンボジアなどの東南アジアへ貿易航路を通じて伝わった南伝という、大きな二つの系譜を形成しつつ、世界に広がっていく。 中国への仏教初伝の時期は定かではないが、紀元前後から、通商などに伴ってシルクロードを通り、徐々に伝来したと考えられている。その後、安世高や支婁迦讖といった訳経僧たちによって、中国で仏典が本格的に漢訳されるようになるのは2世紀中葉の後漢時代からである。 さて、仏教がアジア世界へ伝播していくさなか、インドにおいては、大乗の経典を基に思想の理論的な発展もみられた。それを担った優れた仏教思想家(論師)として知られるのが、2世紀から3世紀にかけて活躍した竜樹(ナーガールジュナ)である。 『中論』などを著した竜樹は、竜猛や竜勝とも訳される。彼は、釈尊が説いた“苦行と快楽の両極端から離れる「中道」の実践論”と、“あらゆるものごとが因と縁によって生起するという「縁起」の思想”を、大乗の「空」の理論に関係づけた。 すなわち、すべての事物・事象は固定的実体がない「空」なる存在であり、他との関係によって生起する存在である。しかし、人は事物・事象を固定的に見て、それに執着したり、それを嫌悪したりする。このような偏見や執着を離れて、ありのままに事物を見て行動していく「中道」が真実であるとした。 こうして、大乗仏教の「空」の思想を大成した竜樹は、後の中観派と称される仏教学派の基礎を築き、後世の仏教思想に多大な影響を及ぼしたので、「八宗の祖」とたたえられるようになる。 その後、4~5世紀頃に活躍した大乗の論師に、無著(アサンガ)と世親(天親、ヴァスバンドゥ)の兄弟がいる。 兄・無著は『摂大乗論』などを著して、仏教教理の中にあった唯識(外界の事象は、心の本体である識が変化して仮に現れたもので、実在するのはただ「識」のみとする)思想の体系化を進めた。 とりわけ弟・世親は、主著『唯識二十論』『唯識三十頌』によって唯識の思想を大成させたほか、法華経の注釈書である『法華論』などの論書を著して大乗を宣揚した。彼は多数の論書を著したことから、「千部の論師」とも称される。 これら論師によって体系化され、理論的発展を遂げた思想を基礎として、やがて、中観派と唯識派が大乗仏教の思想を代表する二大学派として展開していくことになる。優れた仏教思想家の活躍により、大乗の思想は大きく開花していったのである。 ![]() はるかにそびえる天山山脈をウズベキスタンの首都タシケントから望む。同地は古来、シルクロード要衝のオアシス都市として栄えた 進む仏典の翻訳 あらゆる人々に弘めるため 大乗仏教の歴史的展開の後期には、儀礼や呪術によって現世利益の成就を図る密教が発達していった。その後、12世紀末から13世紀初頭にかけて、インドは国外勢力の侵攻を受け、ナーランダー僧院やヴィクラマシーラ僧院など主要な仏教拠点が破却されて、ついにインドの仏教は衰微の歴史をたどることになる。それはちょうど、日本で鎌倉時代を迎えていた時のことだ。 一方、中国には紀元前後から、初期仏教の経典や大乗の諸経典、論書が続々ともたらされた。とはいえ、中国に伝来した仏教は、インドから直接、流入したわけではない。特にその初期において、仏教はシルクロードをたどりながら、一度、中央アジアの諸国に根を下ろして文化的な変容を見せつつ、中国へもたらされたと考えられている。 西北インドからパミール高原を越えて、天山山脈の麓にあるオアシス都市・疏勒(カシュガル)に至ると、そこから東は広漠なタクラマカン砂漠が続く。北に天山山脈、南に崑崙山脈がそびえる流砂地帯。連なる峰々には標高7000メートルを超える高山もある。天山山脈南麓の亀茲(クチャ)や、疏勒から南東の于闐(ホータン)などは、仏教が栄えた国として知られる。亀茲から東にある敦煌は大規模な仏教遺跡・莫高窟などで有名だが、ここを越えると、長安や洛陽といった古代中国の中心都市へとたどりつく。 険難な山岳地帯や荒涼とした砂漠を踏み越え、さまざまな艱難を乗り越えて釈尊の教えが伝えられた歩みに思いをはせる時、仏法弘通を担った人々の、燃え立つような熱意が胸に迫ってこよう。 池田先生はこのように語る。 「言語に絶する困難な旅を終えても、なお彼らには次の使命が待っていた。それは、いうまでもなく仏法を、人種や民族の違いをこえて、すべての人間に教え、弘めることです。その弘教活動の一環として、ここに仏典の翻訳という事業が、きわめて重要な意味をもって浮かび上がってくるのです」 中国の側からすれば、西域から伝わってくる仏教は当初、あくまで“異域の教え”であっただろう。儒教など中国固有の思想もすでにあり、言語や文化の壁を前に、人々が外来の仏教思想を受容するには時間を要したに違いない。 その最初期は、西域からやって来た仏教者たちが仏典の翻訳を担った。 中国で初めて仏典を漢訳したとされる安世高は、西アジアの安息国(パルティア)の王子であった。出家した後、西暦148年頃に後漢時代の洛陽を訪れて、初期仏典を中心に漢訳していった。同じく後漢時代、安世高にやや遅れて洛陽に至った支婁迦讖は、中央アジアの大月氏の出身である。主に大乗の経典を漢訳したとされる。 これ以降、中国では経典の翻訳作業が大きく進み、仏教の思想が人々に受け入れられていく。(続く) [VIEW POINT]論師 経典の注釈書である「論」を著して仏法を宣揚した思想家を「論師」といい、今回取り上げた竜樹と世親(天親)は、共に「菩薩」ともたたえられています。日蓮大聖人は2人を、釈尊の教えを正しく継承し、仏法の弘通に重要な役割を果たしたことから、仏滅後の正法時代の正師と位置づけられています。 論師によって展開された「論」を土台に大乗の思想は発展し、中国から韓・朝鮮半島、そして日本へと伝来する中で、多様な実りをもたらしました。 大聖人は「問うて云わく、如来の滅後二千余年、竜樹・天親・天台・伝教の残したまえるところの秘法は何物ぞや。答えて曰わく、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(新156・全336)と仰せです。竜樹や天親、また、法華経を宣揚した中国の天台大師や日本の伝教大師が伝えてきた仏法の肝要――それを大聖人は、末法に弘めるべき大法である、三大秘法の南無妙法蓮華経として顕されました。 この大聖人の確信に連なって、全世界に妙法を弘通してきたのが、創価の師弟の歴史です。私たちが世界広布という仏意仏勅の使命に生き抜く限り、仏法正統の命脈は未来にわたり、滔々と流れ通っていくのです。 |