法華経 ④
26年2月10日 
滅後弘通の実践とは
人々への礼拝行を貫く不軽菩薩

 本連載では、前回まで5世紀初頭の訳経僧・鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)が翻訳した「妙法蓮華経」に基づき、法華経の思想について取り上げてきた。
 まず法華経の前半(迹門)では、万人を成仏に導くという釈尊の真実の願いは、法華経によって実現することが説かれ、あらゆる教説を一仏乗の法華経に統合することが示された。
 後半(本門)では、釈尊の「久遠実成(はるか昔の過去世に成仏したこと)」が明かされたことで、過去から現在、そして未来にわたって、釈尊こそが娑婆世界の衆生の救済者であることが示された。これは、諸経典で尊崇される諸仏を、釈尊へ統合するものであるといえよう。
 そして、法華経の教えを、仏滅後の悪世において弘通する使命を託されたのが、従地涌出品第15で大地から無数に出現した地涌の菩薩である。
 では、法華経を実践するとは、具体的にどのようなことなのであろうか。その模範として、今回は、常不軽菩薩品第20に説かれている「不軽菩薩(常不軽菩薩)」について見ていきたい。
 法華経の如来寿量品第16で久遠実成の法理が示された後、分別功徳品第17から法師功徳品第19まで、法華経を弘通する功徳が説かれる。それに続く常不軽菩薩品では、「法華経を実践する人の功徳」と「法華経の実践者を誹謗する人の罪」が象徴的に示されている。
 釈尊自身の過去世の姿とされる不軽菩薩は、はるか昔、威音王仏という仏の教えが形骸化する像法時代の末期に出現した菩薩である。まさに“法滅の危機”に直面する時に現れた不軽菩薩は、四衆(出家の男女と在家の男女)に対して、こう言いながら礼拝し、賛嘆していったと説かれている。
 「私は深くあなたたちを尊敬し、決して軽んじません。なぜなら、あなたたちはみな、菩薩の修行を実践したならば、成仏することができるはずだからです」
 この部分は鳩摩羅什の漢訳で24文字あるため、「二十四文字の法華経」とも呼ばれる。このように、不軽菩薩があらゆる人々を敬い、“菩薩の修行をすれば誰もが成仏できる”と伝える修行は、まさに法華経が示す万人成仏の思想の、実践的な表現であるといえる。
 ところが、これに対して憎悪の念を起こし、反発する者が多く現れた。これら「増上慢(思い上がった者)」たちは、「仏ではない者の記別(仏となる保証)の授与は受け入れない」などと不軽菩薩をののしり、棒や土くれ、石などによって攻撃した。
 いわば不軽が“誰もが仏になれる”と語ったことに対して“信じられるわけがない”と反発したのだ。
 それでも不軽菩薩は、人々への礼拝をやめることはなかった。迫害されてもなお、怒りや恨みを抱くことなく、「二十四文字の法華経」を何年も唱え続けたと記されている。


一切衆生に仏性が
自他共の幸福に尽くす生き方を
 池田先生は不軽菩薩の礼拝行について、このように語っている。
 「一切衆生に『仏性』がある。『仏界』がある。その『仏界』を不軽菩薩は、礼拝したのです。法華経の経文上では“一切衆生に仏性がある”とは明示されていない。しかし、厳然と、そのことを主張しているのです。これ以上の『生命尊厳』の思想はない」
 常不軽菩薩品に描かれる不軽菩薩は迫害に怯まず、“常に人を軽んじない”というその名の通り、出会った全ての人を敬う合掌礼拝の修行を貫いた。その果報として、不軽菩薩は臨終にあたり、威音王仏がかつて説いた法華経の説法を全て聞いて、六根清浄を得ることができたと説く。六根清浄とは、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意。六つの知覚器官)が浄化されることだ。
 そして、不軽菩薩は寿命を大いに延ばし、広く衆生を教化していく。命が絶えた後も、生まれるたびに多くの仏に巡り合い、どんな相手にも恐れることなく法華経を語り抜き、ついに最高の覚りを得て、成仏することができたのである。
 ここまで説いた時、釈尊は突然、宣言した。
 「その時の常不軽菩薩とは、別の人ではない。ほかならぬ、私自身のことなのである」
 いかなる迫害にも屈さず、常に他者を敬う実践を貫いた不軽菩薩。実はそれこそが、釈尊の過去世における修行の姿であることが明かされたのだ。
 法華経には、不軽菩薩をさげすんで、迫害した人々も、最終的には法華経を聞いて救済されていくことが示されている。ただし、不軽菩薩をそしった罪によって、これらの人々は千劫という果てしなく長い期間、地獄の苦しみを受けなければならなかった。これもまた、法華経に記された峻厳な因果の理法である。
 あらゆる人々に尊厳性を見いだし、誰もが成仏できるという信念を貫いた不軽菩薩のドラマ。そこには、まさしく「万人尊敬」「生命尊厳」という、仏法の人間主義の思想が力強く脈打っていよう。何より、縁する全ての人に仏法を語り、自他の成仏の道を開いた不軽の実践は、“自他共の幸福に尽くす”という仏法者の慈悲の生き方を鮮明に表している。
 忍耐強く、多くの人に仏法を語り抜く。何があろうと、広宣流布のためにひたすら戦い続ける。不軽菩薩の振る舞いにみる“不屈の実践”こそ、末法の悪世における、法華経を弘通する上での要諦にほかなるまい。
 池田先生は語った。
 「不軽菩薩は、上手な話もしなかった。偉そうな様子を見せることもなかった。ただ、愚直なまでに『下種』をして歩き回った。その行動にこそ、三世にわたって、『法華経』が脈動しているのです。
 要するに学会員です。最前線の学会の同志こそが、不軽菩薩なのです」(続く)

[VIEW POINT]人の振る舞い
 法華経に示されている不軽菩薩の名前にある「不軽」には、さまざまな解釈があります。鳩摩羅什訳では“常に人を軽んじなかった”という意味ですが、サンスクリット(古代インドの文語)では、反対に“常に人から軽んじられた”という意味にもなります。
 不軽は、どれほど自分が軽蔑され、悪口罵詈や暴力を受けようと、相手を敬い、礼拝し続けました。人から軽んじられようと、自分は相手を軽んじない。それが不軽菩薩の生き方です。
 日蓮大聖人は、「不軽菩薩の人を敬いしは、いかなることぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候いけるぞ」(新1597・全1174)と仰せです。“人を敬う”という振る舞いに、法華経の修行の肝要があります。
 私たちが日々、目の前の一人を大切にし、励ます行動は、いわば、万人に仏性を見いだすという“不軽の実践”を体現する、最も尊い生き方にほかなりません。池田先生は「いかなる時も、人間の仏性を信じて祈っていく。その境涯に立って振る舞っていくことが、仏法者の『人間性』の証です」と。対立や分断をあおる思想が台頭し、人間の尊厳性が損なわれかねない今だからこそ、万人尊敬の哲理を広げる私たちの使命は大きいのです。