仏典結集③
25年10月19日 
アショーカ王の改心
法(ダルマ)による統治を

 釈尊滅後から100年ほどがたったころの仏教教団は、上座部と大衆部という二つのグループに分かれたとされる。さらにその後、教団はいくつもの部派に枝分かれした。
 ところで、釈尊の入滅を前後して、古代インドもまた目まぐるしい変革のただ中にあった。
 小国家が大国家へと統合されゆく激動のインド世界。その西方・ギリシャ世界では、マケドニア王国のアレクサンドロス(アレキサンダー)王が領土の拡大のため東方に遠征し、紀元前327年頃には西北インドにも侵攻した。
 なお、彼の東方遠征は、ギリシャ文化と古代オリエント文化との融合をもたらしたとされ、後にはヘレニズム文化が生まれた。紀元後1世紀頃から、ガンダーラ(現在のパキスタン北西部)地方などでギリシャ彫刻の影響を受けた仏教美術が栄え、ここから仏像が出現したともいわれる。
 その後、チャンドラグプタがインドに残っていたギリシャ勢力を制圧し、各地の国家を征服して、インド史上初の統一国家(マウリヤ朝)を創建する。王朝の威勢は、第3代のアショーカ(阿育)王の時代に至ると絶頂を迎えた。
 アショーカ王の即位年は紀元前268年頃とされる。北伝の漢訳仏典では、この年を仏滅後百余年とする一方、南伝仏教では仏滅後218年とする。アショーカ王の即位年は、釈尊の仏滅年代を算定する主要な手がかりの一つではあるが、仏滅年代に関する伝承はこの他にいくつもあり、確定されていない。
 アショーカ王は当初、暴虐な王であったとされる。しかし、インド南東部のカリンガ国を大軍で征服した際、15万人を捕虜とし、10万人もの人々が殺害された。凄惨を極めたその光景を前に、アショーカ王は深い悔恨の念を抱いた。そのことが、彼の理念を記した磨崖法勅(磨いた崖の岩面に刻んだ法勅)に刻まれている。
 やがて、改心したアショーカ王は、武力ではなく法(ダルマ)による統治を決意する。また、仏教への信仰心を強め、慈悲の精神に基づく善政を敷いたことで、国は大いに繁栄した。
 とりわけ、福祉事業は目覚ましかった。諸国に人や動物の病院を充実させ、薬草や果樹を植えた。道路に沿って、暑さをしのぐための樹木を植え、井戸を掘り、旅人の休憩所を設けた。農作物の増産のために貯水池も造った。税の軽減など、格差是正にも取り組んだ。
 辺境の民族や諸外国に対しては、平和的な親善を盛んにした。王の政治理念である法(ダルマ)を普及させるための外交使節を派遣した地域は、王国の隣接地だけでなく、西方のシリア、エジプト、マケドニアにまで至っている。
 こうしてアショーカ王の治世に、インド世界には比類なき安穏が訪れることとなった。

インド・ブバネーシュワル近郊のダウリに立つ巨大な岩面には、アショーカ王の法勅が文字で刻まれている

仏教の精神の具現化
人々の幸福を願い、尽くす
 法(ダルマ)による政治を志したアショーカ王は、自らの政治理念や決意など(法勅)を、王国内に建立した石柱や、各地の磨崖に文字で刻み、広く民衆にも共同を呼びかけている。
 生類の無益な殺生を戒めるなど、慈悲の精神の教化にも努めていたようだ。王は碑文で、高らかに宣言している。“全ての人々が、利益と安寧を得ることを願う”“そのこと以上に重要な事業は存在しないのだ”と。
 アショーカ王は仏教の興隆にも尽力し、仏教教団を手厚く援助したと伝わる。仏道修行の拠点となる精舎を各地に寄進し、王国全域に仏塔(ストゥーパ)を建立するとともに、仏教の聖地や仏弟子の遺跡にも巡礼したようである。
 一方、仏教教団が経済的に豊かになったことで、安易な生活を望んで出家する者も続出したことが、上座部系統に伝わる。教義の乱れを懸念したアショーカ王が、3度目の仏典結集(第三結集)を促したという説もある。王の法勅には、教団の分裂を戒める内容もあり、教団の和合に努めていたことが分かる。
 アショーカ王は仏教を庇護しつつ、諸宗教にも寛容な態度を示し、時に援助もするなど、あくまで宗教間の平等を重んじた。こうした中で仏教はますます栄え、やがて王国だけでなく、近隣諸国やギリシャ世界にまで広がった。
 人々の幸福を願い、尽くしていく。仏法者としてのアショーカ王の振る舞いは、自他共の幸福のために生きる創価の同志とも重なろう。池田先生はつづる。
 「仏法は本来、すべての人びとが『仏』という尊極無上の生命、すなわち『仏性』を具えていると説いています。
 それこそが、生命尊厳の確たる裏づけであると同時に、万人平等の哲理ともなります。また、そこから平和主義、人間主義の思想も生まれます」(小説『新・人間革命』第30巻〈上〉「大山」の章)
 公共事業や格差の是正、環境保護、文化交流、信教の自由の保護――アショーカ王の事跡と政治理念は、まさしく、仏教の慈悲と寛容の精神の具現化にほかなるまい。
 とはいえ、栄枯盛衰は歴史の常である。アショーカ王が死没するとマウリヤ朝は次第に衰退していく。紀元前2世紀後半には、西北インドがギリシャ人の諸王に統治されるようになった。
 そうした王のうちの一人が、聡明と名高いミリンダ王(メナンドロス1世)である。インドの仏教僧・ナーガセーナ(那先)と仏教教理を巡って対話した内容が、仏教の古典である「ミリンダ王の問い(漢訳「那先比丘経」)」として残されている。
 やがて、インドの南北それぞれに、新たな王朝が誕生した。活発化する東西の交易と文化交流が、歴史のダイナミズムを加速させる。時代の有為転変の中で、仏教の思想のうちにも新たな胎動が始まりつつあった……。(続く)

[VIEW POINT]土の餅
 アショーカ王は、仏典に「阿育」という名で記されています。日蓮大聖人は「仏に土の餅を供養せし徳勝童子は阿育大王と生まれたり」(新1744・全1315)と仰せです。アショーカ王が過去世において「徳勝童子」という子どもだったころ、通りかかった釈尊へ、心を込めて「土の餅」を供養しました。その真心が福徳となり、やがて、全インドを統一して平和を実現する偉大な王に生まれ変わったのです。
 実際には食べられない土の餅。それを仏にささげたという説話は、幼いながらも「どうにかして仏に喜んでもらいたい」と願ったような、清らかな求道の一念にこそ、大きな福徳が積まれることを表しているでしょう。
 池田先生は語りました。「仏法は『心』です。『心』で決まるのです。真剣に、まじめにやった分だけ、必ず得をする」「堂々と、グチもなく、一喜一憂もせず、ただ民衆の幸福を願い、あの人、この人の幸せを祈りながら、最後の勝利へ進んでいく。広宣流布へ戦っていく。その人こそ『王者』です」
 広布のために生き抜く私たちの一日一日は、人類の恒久平和の時代を築く人間王者の足跡として、仏教史に刻まれることは間違いありません。