| 仏典結集② 25年9月9日 |
| 戒律の解釈を巡って 時代に合わせた緩和を主張 釈尊入滅のその年に、マハーカッサパ(摩訶迦葉)を中心とした仏弟子たちによって、釈尊が残した「法(後の〈経〉)」と「律(教団の規則)」の集成会議――「仏典結集(第一結集)」が行われたとされる。 偉大な指導者の入滅。それは、当時まだ新興の釈尊教団にとって、内部分裂や衰亡の危機を招きかねない重大事であっただろう。仏弟子たちが釈尊の教えを一つ一つ吟味して、全員が賛同したものを仏説と定める結集の場は、教団の意思統一を図る機会でもあったのかもしれない。ともあれ、仏説として確定された法(経)と律は、口頭伝承によって継承されていく。 法(経)は、その後も編さんが繰り返され、次第に初期仏教の経典として形成されていった。釈尊時代に近い古層の教えは、漢訳の「阿含経」と、パーリ語仏典の五つの「ニカーヤ(部)」の中に残るとされるが、これらは第一結集の時よりも編さんが加えられた、かなり後世の形を伝えるものである。 仏教が広まるにつれ、教団の規模も大きくなる。が、地域の社会状況の違いなどによって、教団運営上の戒律の解釈を巡り、問題が生じるようになった。 伝承では、釈尊が入滅してから100年ほどが過ぎた頃に、2回目の仏典結集が行われたとされる。 発端は、商業都市ヴェーサーリー(毘舎離)のヴァッジ族の出家修行者たちが、戒律の解釈に関して、10種の問題(十事)を提起したことだった。釈尊時代から100年も時が経過すれば、教団を取り巻く社会環境や生活様式も大きく変化していただろう。時代に合わせて教団規則の緩和を訴えたのだ。 とりわけ大きな問題になったのが、金銭に関する扱いであった。 それまで釈尊の教団では、出家修行者が金銀等の財物を受納することは厳しく禁じられていた。しかし、商業や貨幣経済が発展すれば、在家信者から布施として金銭を受け取るようになることは、やむを得まい。ヴェーサーリーは商業都市であったから、なおさらであろう。そこで、ヴァッジ族の出家修行者たちは、金銭等の財物による布施を容認するように求めたのだ。他にも、食事に関する制限について緩和を求める提案もあった。 第一結集で定められた戒律を厳格に守っていた教団の長老(上座)たちからしてみれば、由々しき事態であったに違いない。 そこで、ヴェーサーリーの地において、各地から集まった長老たちが会合を持ち、これら提起された「十事」について、全てを不適切な非法であると判定したとされる。 その後、長老たちの中から選ばれた700人の代表によって、2回目の仏典結集となる法(経)と律の合誦がなされた。これが、「第二結集」といわれるものである。 ![]() 教団の根本分裂 釈尊の心に立ち返る精神闘争 「十事」を非法とされたことに対して、これに納得しない出家修行者たちと長老派との間で意見の対立が深まった。 一説には、ヴァッジ族出身の出家修行者たちが1万人の衆徒を集め、長老派とは別に、大規模な仏典結集を行ったとも伝わる。 この事件をきっかけに、仏教教団は、定められた戒律を厳格に守る保守的な上座部と、戒律をより柔軟に解釈しようとする進歩的な大衆部に分かれた。こうして生じた仏教教団の最初の分裂を「根本分裂」という。 なお、紀元前の仏教史は資料に乏しく、学術的には不確定なものが多い。根本分裂の原因についても諸説が提起されており、「十事」を巡る対立に直接起因すると伝えるのは、あくまで上座部系統の史書(「島史」「大史」)である。 「大毘婆沙論」「異部宗輪論」等の伝承を踏まえて、仏陀に比べれば阿羅漢(最高位の修行者)の知恵や能力に限界があるとする大衆部系統と、阿羅漢には無知や疑惑など一切ないと主張する上座部系統との論争が、分裂の一つの原因になったとする見方もある。 このように、紀元前の出来事について、その事実を確定するのは極めて困難であるが、いずれにしても、釈尊の入滅から100年ほどを経て、教団を二分するほどの見解の相違が生じた。 この時、名称は定かではないが、教団は、上座部と大衆部という二つのグループに分裂しているといえるほどの状態になったのであろう。 戒律の緩和を主張する大衆部の人々の目には、上座部が戒律を墨守するだけの教条的なグループに映っていたのかもしれない。他方、上座部の人々からすれば、そうした大衆部の姿勢は、無原則に妥協する修正主義に見えていたと言えなくもないだろう。 かつて池田先生は、法華経を根本とする民衆仏法の視座の上から、根本分裂時における両部の対立について、このように見解を語っている。 「それは『正統と異端』といった争いではない。仏教の場合、革新運動はつねに『原点に帰れ』という精神から出発しているのです」「釈尊五十年の説法は、なんのためであったか。それは、生老病死の苦悩に沈む大衆を救うためのものであった」(『池田大作全集』第12巻) 根本分裂の思想的背景にあるもの――これを大きく捉えてみれば、まさしく両グループともに、民衆救済を願った師・釈尊の心に立ち返り、根本精神に迫ろうとする、後継の仏弟子たちによる精神闘争があったといっても過言ではあるまい。さまざまな意見が表出され、仏教思想は展開していく。 その後も、仏教教団は上座部・大衆部ともに分裂を重ねていき、やがて18部とも、20部ともいわれる部派(分派)ができる。「枝末分裂」である。こうして、部派仏教の時代を迎えていく。(続く) [VIEW POINT]民衆仏法の大河 池田先生は仏教の根本分裂について、こう洞察しました。「仏法が釈尊一人のものから万人のものとなるために、経なければならない道程だったかもしれない。いわば、胎動の苦悩の時期とも考えられる。あらゆる論が出されて、それがさらに大河となって流れる時を待っていたにちがいない」(『池田大作全集』第12巻) 私たちの広布史の源流にあるのも、民衆仏法の潮流を全世界に広げた、創価三代の師弟による偉大な苦闘の足跡です。それはまた、学会こそが日蓮仏法の正統な和合僧団であることを証明する、正義の闘争史でもあります。 戦時中、命を賭して信念を貫き、獄中で殉教した初代会長・牧口先生。会員75万世帯の弘教を成し遂げ、広布の基盤を築いた第2代会長・戸田先生。そして、世界中に対話を広げ、民衆の未曽有の大連帯を構築した第3代会長・池田先生。今や、日蓮仏法の慈悲の大河が、地球上のあらゆる人々の心を潤す時代を迎えています。 創価の師弟に連なることこそ、妙法流布の流れを永遠ならしめる正しき道である――。私たちはこの誇りと確信を胸に、目の前の「一人」を励ます師弟共戦の歩みを貫き、地涌の連帯の水かさを増していきましょう。 |