| 仏典結集① 25年8月26日 |
| 悠久なる大河も、源流の一滴から始まる――釈尊から法華経、日蓮大聖人、そして創価学会へと至る人間主義の系譜。世界に広がる民衆仏法の源流をたどりたい。ここでは、釈尊の入滅以降における教えの継承について見ていく。(教学解説部編。前回は6月3日付) 法と律の集成 師の教えを失わせないために 紀元前5~6世紀頃の古代インド世界。ガンジス川中流域に広がる国々では社会の大きな転換期を迎えていた。激動する政治や経済。価値観の変容。旧来の、バラモンの教えの権威は揺らぎ、代わって台頭したのが自由思想家たちである。釈尊の仏教が誕生したのは、そのような時代であった。 現在のインド北部とネパール南部が接する地域で、釈迦族の王子として生を受けた釈尊は、人生の問題に深く悩み、若くして出家した。その後、ガヤー(後のブッダガヤ)にある菩提樹下で大悟を得ると、仏陀として、弘教の人生を歩むようになる。 時に迫害を受けながらも、多くの人々に法を説き、弟子を育み続けた半世紀。やがて釈尊はクシナーラー(拘尸那城)郊外において、80歳で入滅した。これが、これまでの本連載で追った偉大な覚者の生涯である。 釈尊は生前、弟子たちに、“出家者は私の供養に関わることをせず、仏道修行に専念せよ”と示していた。そのため、釈尊の葬儀はクシナーラーの人々が執り行ったと伝わる。火葬に付された後、遺骨(舎利)は八つの種族に分けられ、それぞれの地に仏舎利を納めたストゥーパ(仏塔)が建立された。 1898年、インド北部のピプラーワーにおいて、紀元前のものと推定される文字で「釈尊の遺骨を納めたものである」という銘文入りの舎利壺が発掘された(銘文解読には異説あり)。その後も、釈尊のものと推定される舎利壺が複数、発見されている。 釈尊の葬送にまつわる、弟子の逸話がある。 仏弟子たちが釈尊との別れに慟哭する中で、一人の年老いた弟子が、「嘆くな。われらは釈尊から解放されたのだ。今後はしたいことをしようではないか」という暴言を吐いた。南伝の経典によれば、これを聞いた長老マハーカッサパ(摩訶迦葉)が、釈尊の葬儀が全て終わった後、他の弟子たちに、釈尊が説いた「法」と「律(教団の規則)」を集成することを呼びかけたとされる。 彼は思っただろう。今後も、このような違背の徒が教団内に増えるならば、師の正しい教えは失われ、やがて衰滅してしまう。だからこそ、私たちが今、師の教えを、師の心を、後世に伝え残さなくてはならない、と――。 マハーカッサパは、500人の優れた弟子(阿羅漢)を選び、釈尊の教法の集成に取り組む。こうして、経典の編集会議である最初の「仏典結集」が行われたと伝わる。 この1回目の仏典結集(第一結集)は、釈尊入滅の年、雨期の定住(雨安居)期間に、マガダ(摩訶陀)国の首都ラージャガハ(王舎城)郊外にあるヴェーバーラ山腹の七葉窟において、国王アジャータサットゥ(阿闍世)の庇護の下で行われたとされる。 ![]() 世界最高峰のヒマラヤの銀嶺。若き釈尊は、その威容を仰ぎながら気宇壮大な志を育んだのだろうか 唱和して承認する 仏弟子の熱き令法久住の一念 経典が伝える「第一結集」が史実であるかは議論の余地もあろう。とはいえ、偉大な指導者を失った仏弟子たちの深い悲嘆を思えば、入滅直後に弟子たちが集まって、師の生前を皆で回顧し、教団内で教えを確認し合ったであろうことは想像に難くない。仏典結集は仏教史上、幾度か行われたとされる。 仏典の結集といっても、紙に書写するわけではない。「結集」の原語「サンギーティ」には「歌い合わせる」という意味がある。 古代インドでは、仏の教えは全て口頭伝承、すなわち「口伝」であり、聖典が書写されるようになるまでには、紀元前後の頃まで数百年間、待たねばならない。したがって、結集の場においては、弟子の代表が釈尊の教えを唱え、それを唱和して、承認し合ったとされる。 第一結集では、長老のマハーカッサパが座長となり、彼の問いに応じる形で、弟子のうち「多聞第一」のアーナンダ(阿難)が「法(後の「経」)」を、また「持律第一」のウパーリ(優波離)が「律」を、それぞれ誦出した。これが後に、経・律・論の3種類の仏典(三蔵)のうち、経蔵と律蔵の原型となったといわれる。 池田先生は、誦出した2人の弟子について、「単に記憶力が優れていたというだけではない。釈尊の教説が、そのまま二人の体内に血肉化していたのではないか」(『池田大作全集』第12巻)と洞察している。 最後まで釈尊に随順したアーナンダ。誰よりも律に精通していたウパーリ。師匠を求め抜き、師弟に生き抜いた弟子の心に、師の精神は奔流のごとく脈動し続ける――まさしく、仏典結集を巡るドラマは、そのことを物語っていよう。 経典によれば、まずウパーリが釈尊の定めた律の条項を一つずつ誦出し、結集に参加した仏弟子の全員が賛同することで、律として集成された。 続いてアーナンダが釈尊の説いた法を順次に誦出し、同様に仏弟子たち全員の賛同をもって正しい法とされた。 さまざまな経典の冒頭にある「如是我聞」(是くの如きを我聞きき)との句は、伝統的には、アーナンダの言葉であると考えられている。この時に集成された教法は、「伝承」を意味する経典の「アーガマ(阿含)」につながっていったものと考えられている。 結集の場で教えの誦出が始まると、在りし日の釈尊を思い浮かべて胸を熱くする弟子がいただろう。涙を流して、師を渇仰する弟子もいたかもしれない。 こうして、釈尊亡き後の仏弟子たちは、仏典結集によって集成された釈尊の教えをよりどころとし、また和合の中軸と定め、仏道修行に努めていく。 池田先生は語った。「彼らの『令法久住』の一念があったからこそ、二千数百年後の今日まで、仏教は脈々と伝えられてきたのです」(同)(続く) [VIEW POINT]如是我聞 “このように、私は師から聞いた”――幾世紀もの時を超えて、現代に伝わる膨大な仏典の数々。それらは、「如是我聞」(是くの如きを我聞きき)との弟子の言葉から始まります。法華経の冒頭にあるのも、この句です。 亡き師の言葉を、心を、誓願を、永遠に正しく伝え残したい。仏典結集の会座に思いをはせる時、そんな仏弟子たちのあふれる熱誠が胸に迫ります。まさに「如是我聞」の一句には、一切衆生を救おうとする師の一念と、その教えを弘め抜かんとする弟子の一念が響き合う、師弟不二のドラマが凝縮しています。 日蓮大聖人は、釈尊滅後の仏典結集のありさまについて、「諸法実相抄」でこう仰せです。“多くの仏弟子たちが、釈尊を思い出して涙を流し……阿難尊者が泣きながら「如是我聞」と答えた”(新1792・全1360、趣意)と。池田先生は、「弟子の全生命を震わせての叫び、大感情の言動があればこそ、仏法は時を超え、国を越え、流れ通ってきたのである」と語りました。 後継の誇りに燃え立つ弟子が、師匠の正義を大感情で語り、どこまでも師弟の誓いに生き抜く限り、広宣流布の沃野は未来にわたって無窮に広がり続けるのです。 ![]() |