釈尊⑪
25年4月8日 
二人の愛弟子との別れ
“揺るぎなき自己自身であれ”

 成道後の釈尊の人生は、決して平穏ではなかった。波乱の連続だった。
 中傷や迫害。弟子の裏切り。釈尊はいくつもの試練の山を越え、弘教の歩みを貫いた。その教えは滔々たるガンジス川の流れのごとく、古代インドの地に生きる、あまたの民衆の心を潤していった。信念に満ちた人格の輝きは、老若男女を引きつけた。
 風雪の年月を耐え抜いた誉れの年輪。それが幾筋もの皺となり、釈尊の相貌に刻まれる。伝道の生涯は今、たそがれの時を迎えようとしていた――。
 最後の弘教の旅路に入る直前に、悲痛な出来事が、相次いで釈尊を襲った。その一つが、弟子の双璧たるサーリプッタ(舎利弗)とモッガッラーナ(目連)の死であり、もう一つが、故郷の一族の滅亡である。
 仏伝によれば、釈尊がサーバッティー(舎衛城)近郊の祇園精舎にとどまっていた頃、病に倒れたサーリプッタは、出身地であるマガダ(摩訶陀)国の村に戻って療養していた。自らの死期を悟っていたためであったのかもしれない。彼はそのまま帰らぬ人となった。
 その知らせを受けた弟子のアーナンダ(阿難)は、サーリプッタの遺品である鉢と衣を持って、釈尊に告げた。アーナンダの体は悲しみに震えていた。
 釈尊が訃報に接した場面は、「仏陀」の章でこう描かれている。
 ――後継者ともいうべき人物を失った釈尊の胸は、張り裂けんばかりに痛んだが、アーナンダに言うのであった。
 「アーナンダよ。いつも私が言っているではないか。人間は愛する者とは、いつか別れなくてはならないのだ。この世には、何一つ、変化せぬものはない。ここに大樹があったとしよう。その一つの大きな枝が枯れ落ちた。しかし、大樹はなお堅固に生き続けるものだ」
 釈尊は、悲しみのなかでも、揺るぎなき自己自身であれと、アーナンダを励まし、法を説いた。最も悲しいのは、釈尊自身であったはずだ。それは、自らを鼓舞する言葉でもあったにちがいない――
 さらに、サーリプッタの病没から程なくして、モッガッラーナも後を追うようにこの世を去った。外道の一派に庵室を襲われ、殉教したのだ。
 二人の愛弟子は、釈尊の晩年にあって、師の代わりに教えを説くこともあったという。それほど信頼する弟子に先立たれた釈尊の心中は、いかばかりであったか。
 修行者の集いに臨んだ釈尊が、「この集会は、私には空虚であるように思われる」「今は、あの二人の思い出だけが、私を支えてくれる」との言葉を口にしたと仏典にはある。
 しかし、釈尊は気を取り直す。そして、同じく悲嘆する弟子たちに対して、アーナンダに説いた教え――“揺るぎなき自己自身であれ”――を改めて示し、力強く励ました。

釈迦一族の滅亡
無常――ゆえに永遠の法に生きる
 二人の愛弟子の喪失。それとともに、釈尊は一族の滅亡という悲劇にも見舞われた。(釈迦族が滅亡した時期は、釈尊滅後とするなど諸説ある)
 滅ぼしたのは、釈迦族の宗主国コーサラ(拘薩羅)の国王ヴィドゥーダバ(波瑠璃)であった。彼は、釈迦族を深く恨んでいた。父王パセーナディ(波斯匿)の代にさかのぼる因縁が、「仏陀」の章にはつづられている。
 ――パセーナディ王は、釈尊に帰依して以来、釈迦族の王女を妃として迎えたいと望んでいた。
 コーサラは大国だが新興の国であり、釈迦族の国は小国ながら由緒ある国柄でもあった。釈迦族には、その誇りがあり、新興のコーサラ国を快くは思っていなかった。
 パセーナディ王の要請を受けた釈迦族は、王族の娘を差し出すことを厭い、王族が下婢に産ませた娘を王女と偽り、嫁がせた。その娘とパセーナディ王の間に生まれたのがヴィドゥーダバであった。
 その後、彼女は下婢の出であることから、妃の座を外された。そのため、ヴィドゥーダバは自らに流れる血を呪い、釈迦族を恨み続けてきた――
 野心を燃やすヴィドゥーダバは、父王が国を留守にしていた隙にクーデターを起こす。そして王座を奪い取るや、釈迦族の国へ侵攻を開始した。
 急を知った釈尊は、王の軍が進んでくる道端の枯れ木の下に座った。
 その姿を見たヴィドゥーダバが、思わず“釈尊はなぜ、この炎天下で葉陰の少ない樹下にいるのか”と問うたところ、釈尊は答えた。
 「一族というものは、枝葉のようなものです。その枝葉が危機に瀕しているというのに、どこに身を隠すところがありましょう」(「仏陀」の章)
 故郷を救おうとする、釈尊の必死さを感じたのだろう。ヴィドゥーダバは、いったんは軍を返した。
 その後も幾度か同じやりとりがあったものの、制することかなわず、ついに釈尊の祖国は侵略され、滅びてしまった。釈尊が受けた「九横の大難」のうちの「瑠璃の殺釈」である。仏伝には、後にヴィドゥーダバが報いを受けたともある。
 「仏陀」の章では、釈尊の心情をこう描写する。
 「釈尊は最愛の弟子に続いて、同胞をも失った。諸行は無常であった。それはまた、無情の風となって、高齢の彼の心に染みた。しかし、釈尊は負けなかった。無常なるがゆえに永遠の法に生き、それを伝え抜こうとしたのである」
 釈尊はすでに、80歳という高齢になっていた。いかに仏陀とて、人間である。体の衰えを自覚し、あるいは死期の近いことを悟っていたかもしれない。
 成道以来、半世紀も貫いてきた民衆救済の誓願。釈尊は、自身に残された力を振り絞り、足を踏み出した。最後の弘教の旅へ、と。(続く)

[VIEW POINT]社会建設の主体者
 ヴィドゥーダバ王による釈迦族の滅亡――仏にまつわる悲哀の逸話です。他方、歴史をひもとけば、仏教の興隆に大きな役割を果たした王もいます。紀元前3世紀のアショーカ王は、仏法を根底とした慈悲の国家建設に尽力。紀元2世紀頃のカニシカ王の時代には、仏教文化のガンダーラ美術が栄えました。
 池田先生は小説『新・人間革命』「加速」の章で、アショーカ王などの時代だけでなく、天台大師(中国)や伝教大師(日本)が活躍した時代にも、時の王朝文化が栄えたことに触れ、「正法の流布があるところ、偉大なる文化が花開く」と洞察。その上で、日蓮大聖人の仏法を実践する創価学会の使命について、「大仏法を根底とした未聞の人間文化の大輪を咲かせ、民衆の幸福と社会の繁栄を築いていくのが、私たちの広宣流布の大運動」と結論しています。
 混迷の度が深まる現代にあって、日蓮仏法が示す人間尊重の哲理こそ、人類を照らす希望の光源にほかなりません。仏法を実践する私たち一人一人が“社会建設の主体者”の自覚を深め、周囲に信頼と共感の輪を広げる中で、やがて偉大な人間文化が薫る、崩れざる幸福社会が築かれるのです。