| 1995年(平成7年) 栄光・躍進の年 25年5月20日 |
![]() 池田先生が「21世紀兵庫希望総会」でスピーチ(1995年10月17日、兵庫池田文化会館で) 10・17 21世紀兵庫希望総会 色とりどりの万国旗が並んでいた。1995年(平成7年)10月17日、兵庫池田文化会館で「21世紀兵庫希望総会」「SGI総会」が開催された。世界57カ国・地域から約1000人の友が集い、兵庫の同志は万感の思いでその日を迎えた。 「兵庫総会」という名称に「希望」の二字を加えることを提案したのは、池田先生だった。震災の爪痕がいまだ街に残る中で、「懸命に立ち上がろうとしている、その神戸の地でやることに意味があるんだ」と、開催を強く望んだのも先生だった。 ――9カ月前の1月17日午前5時46分。突如、地鳴りとともに、激震が兵庫を襲った。家屋は倒れ、道路は寸断され、多くの尊い命が奪われた。 4日後にハワイを訪問する予定だった先生は、あと1日、もう1日と出発を延ばしながら、国内にとどまり救援の指揮を執った。 震災当日の午前7時半。「全力で救援を。考えつく、すべてのことを」。この先生の言葉が、学会本部で徹底された。同8時、東京と関西の両方に災害対策本部が設置される。同9時、ドクター部、白樺会・白樺グループ(当時)による救急医療班が結成。午後には、救援物資を隅々にまで運ぶバイク隊が編成された。 兵庫区には当時、会館がなかった。個人宅を災害対策本部とし、電柱に「創価学会救援本部」と掲げた。そこに、三田の同志からの大量のおにぎりが届いたのは、午前11時ごろだった。 艀を使った輸送も行われた。船が出払う中、艀をチャーターし、大阪港文化会館に集まった物資を5時間かけて壮年・男子部員が積み込んだ。午後11時半に神戸港へ到着。物資を降ろし、港へ戻った時には午前4時を過ぎていた。 尼崎の青年部員は、武庫川を越えて神戸へ向かう際、「川を越えたら一切、愚痴は言うな」を合言葉にした。目の前の人を救いたい――その一心で皆、動いていた。 先生は17日、関西へ伝言を送った。 「リーダーが滅入ってはいけない。社会の現象なんだから負けてはいけない」「最善を尽くし、何でもしてあげてください」 25日の夜、先生はハワイへ向かった。その折、「子どもたちの教育は、不自由していないだろうか」と。関西の対策本部は直ちに動き、兵庫県や神戸市に教育用品を寄贈した。 ハワイ到着後の26日、先生は東西センターで講演。翌27日、アメリカ最高会議で語った。 「わが偉大なる関西の友は、自分のことをさしおいてまで、人々のもとに足を運び、激励を続けている」「人の面倒をみた人、友を励まし続けた人。その人には、だれもかなわない」 発災後6日間で、学会は、飲料水22万本、おにぎり65万個、毛布7万5000枚、紙おむつ4万人分、医療品2万5000箱などの救援物資を準備した。それらが陸・海・空から被災地に届けられた。 ![]() 神戸の港から世界につながる海を臨んで(1995年10月17日、池田先生撮影) 観測史上初めて震度7を記録した阪神・淡路大震災。その強い揺れにも、兵庫池田文化会館は厳然と立っていた。会館がある――それだけで、兵庫の友の心は奮い立った。長田文化会館、西宮平和講堂、灘文化会館なども救援拠点となった。 2月2日、ハワイ訪問を終えた先生は関西に入った。4日、関西文化会館での追善勤行法要に臨んだ。 「亡くなられた方々も、すぐに常勝の陣列に戻ってこられる」 「私どもは、亡くなった方々の分まで、明るく、希望をもって、高らかに妙法を唱えながら進んでまいりたい」 2月2日から、聖教新聞で連載中だった小説『新・人間革命』第3巻「仏法西還」の章で、山本伸一が仏法の生死観を語る場面が描かれ始めた。 4日付では「広布のために、仏の使いとして行動し抜いた人は、いかなる状況のなかで亡くなったとしても、恐怖と苦悩の底に沈み、地獄の苦を受けることは絶対にない」と。 先生の激励は続いた。3月27日、地域のために奔走する兵庫男子部に、3首の和歌を贈った。 「見も知らぬ さまよい疲れる 人々を 抱きかかえたる 尊き君らよ」 「恙なく 無事安穏の 操縦を 若き英雄 嘆かず指揮とれ」 「沈黙を 破りて轟く 歌声の 指揮をぞ頼まむ 池田門下と」 5月の関西訪問では、「大震災という困難を乗り越えている皆さまの中から、21世紀を担いゆく、明敏にして、強靱なる指導者が育っていることを私は感じる」と先生は語った。 そして、10月17日に迎えた「21世紀兵庫希望総会」。合唱団による関西の歌「常勝の空」の合唱が響き渡った。大震災の日である1月17日を、兵庫復興と新世紀への出発の原点とする意味で「阪神ルネサンスの日」とすることが決まった。 先生は語った。 「日蓮大聖人の仏法は、『無限の希望』の哲学である」「私たちには絶対に行きづまりがない。どんな状況にあろうと、限りなく『希望』をわき立たせ、『希望』を実現していける」 さらに、兵庫の深き使命を訴えた。 「ここ兵庫は、大震災の大試練を乗り越え立ち上がってこられた。その不屈の精神は、やがて日本をリードし、21世紀の文明の大きな核となっていくことを、私は確信してやまない」 ![]() 親しみを込めて参加者に呼びかける池田先生(1995年10月17日、兵庫池田文化会館で) ◆1995年◆ 年表 【1995年(平成7年) 栄光・躍進の年】 〈1月17日〉 阪神・淡路大震災の報に接し、お見舞いを伝え、総力を挙げての救援活動を指示。予定されていた海外訪問の出発を延期 〈1月24日〉 阪神・淡路大震災の対策会議が東京と関西で行われ、東京での対策会議に出席 〈1月25日〉 ハワイ訪問(~2月2日) ハワイ大学に隣接する学術機関「東西センター」ならびにハワイ大学スパーク・マツナガ平和研究所の招へいを受け、国連創設50周年を記念し、「平和と人間のための安全保障」をテーマに講演(26日)。ハワイ文化会館を初訪問(30日) 〈2月1日〉 「法華経の智慧――二十一世紀の宗教を語る」の連載を「大白蓮華」2月号から開始。「法華経 方便品・寿量品講義」を聖教新聞5月4日付から連載〈以降、次々と、釈尊の法華経、日蓮大聖人の御書、創価学会の実践のなかに貫かれている生命尊厳、万人尊敬の人間主義のもと、新時代にふさわしい教学著作を執筆。それらが各言語に翻訳され、世界広布を大きく推進している〉 〈2月3日〉 阪神・淡路大震災の第1回東京・関西合同対策会議(大阪) 〈2月4日〉 阪神・淡路大震災の追善勤行法要(大阪) 〈3月18日〉 ロシアの国際児童基金協会から「レフ・トルストイ国際金メダル」を受賞(創価大学)。同協会のアリベルト・リハーノフ総裁と会談(東京)。後に対談集『子どもの世界――青少年に贈る哲学』を発刊 〈6月26日〉 スペインのアテネオ文化・学術協会から招へいを受け、記念講演「21世紀文明の夜明けを――ファウストの苦悩を超えて」を寄せる(代読) 〈7月5日〉 南アフリカのマンデラ大統領と迎賓館で会見(東京) 〈8月8日〉 世界詩歌協会から「世界桂冠詩人賞」を受賞(代理 インド) 〈9月7日〉 アフリカのジブチ共和国から「ジブチ『偉大なる星』勲章シュヴァリエ章」を受章(東京) 〈9月30日〉 南アフリカのノース大学から名誉教育学博士号を受ける(代理 南アフリカ) 〈10月7日〉 滋賀文化会館を初訪問 〈10月15日〉 被爆50年、国連創設50周年を記念する第14回世界青年平和文化祭(広島) 〈10月17日〉 第20回SGI総会を兼ねた21世紀兵庫希望総会。阪神・淡路大震災の犠牲者の冥福を祈り勤行・唱題(兵庫) 〈10月30日〉 アジア訪問(~11月17日。ネパール、シンガポール、マカオ、香港) ネパールのビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ・デヴ国王を王宮に表敬訪問し会見(11月1日)。トリブバン大学で「人間主義の最高峰を仰ぎて―現代に生きる釈尊」と題し記念講演(2日)。同大から名誉文学博士号を受ける(3日) シンガポール創価幼稚園を初訪問(7日) マカオ大学から名誉社会科学博士号を受ける(14日) 香港の作家・金庸氏と対談(16日、香港)。後に対談集『旭日の世紀を求めて』を発刊 〈11月23日〉 「SGI憲章」を発表(大阪)。人間主義に基づく「世界市民の理念」「寛容の精神」「人権の尊重」を高く掲げ、非暴力と対話により人類社会に貢献する理念を十項目に明文化する 〈12月1日〉 牧口記念教育基金会を創立 〈12月8日〉 アルゼンチンの人権活動家でノーベル平和賞受賞者のアドルフォ・ペレス=エスキベル博士と会談(東京)。後に対談集『人権の世紀へのメッセージ――“第三の千年”に何が必要か』を発刊 〈社会の動き〉 1月、世界貿易機関(WTO)が発足。阪神・淡路大震災。3月、地下鉄サリン事件。7月、ベトナムとアメリカが国交回復。 |