1990年(平成2年)
原点・求道の年㊤
24年11月8日
平和と文化と人間のための行進
池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第33回は、「原点・求道の年」と銘打たれた1990年(平成2年)の㊤を掲載する。

2・12~3・1
アメリカ指導
1990年(平成2年)2月12日、池田先生は3年ぶり22回目となるアメリカ訪問を果たした。
17日間の激励行の焦点の一つは、青年の育成であった。アメリカ広布の千年の基盤をつくるため、先生は計8回にもわたって青年部の研修会を行った。
朝は青年と共に体操を行い、昼夜分かたず、青年と語り合い、記念のカメラにも納まった。小さな部屋で行われた少人数での語らいの折、「青年は『教学』に挑戦してほしい。青年は『行動』でみずからを鍛えてほしい」と万感の思いを語った。
青年の姿を見つけては、励ましを送り続けた。ある時には、屋外の行事役員に就く青年のもとに歩み寄り、「人間共和のアメリカをつくろう!」と。またある時には、白い色紙に山と人々の絵を描き、“師匠の後を継いで、何があっても広布の険難の山を登っていくのが弟子なのだ”と訴えた。
この訪米で、先生は実業家のハマー博士、「化学賞」「平和賞」という二つのノーベル賞を受賞したポーリング博士、ジャーナリストのカズンズ博士らと対談している。多忙を極める中で、青年への薫陶が重ねられたのである。
7回目の研修会で、先生は強調した。
「私どもは、今世のみの家族ではない。久遠以来の兄弟である。『今世だけの絆』と見るのはあまりにも浅い見方である」
「この仲間とともに、現在から未来へ、『広宣流布』という、平和と文化と人間のための行進を、永遠に続けていくのである」
アメリカ広布の転換点の一つとなった90年の先生の訪問。この時、先生が手塩にかけて育んだ青年が今、アメリカ広布の中核を担っている。

池田先生が青年部研修会に参加した友と(1990年2月25日、ロサンゼルス近郊で)

5・27~6・1
中国訪問
第7次訪中前の1990年(平成2年)4月、池田先生は中国の要人との会見で語った。
「友情は、不変であってこそ友情です。いな苦難の時ほど、本物かどうかがわかるものです」「今こそ、大いなる『金の橋』を輝かせましょう。民衆の往来によって、日中の『友情の大道』の存在を、世界に示しましょう」
当時、中国は国際的に孤立していた。その中で、先生は約300人の大交流団を率いて、同年5月27日に訪中する。日中友好の誓いを行動で示したのである。
28日、北京大学で3度目となる講演を行った。教育こそ「地球の未来を開く大業」と語りつつ、訴えた。
「恩を『感じ』、恩を『報ずる』ことは、まさしく人間の『正道』であります。それゆえ“文化の恩人”である中国の発展と幸福のために、誠心誠意、努力を傾けていくことが、日本人にいやまして求められている、と確信してやみません」
この日、先生は周恩来総理の夫人で、「人民の母」と慕われた鄧穎超氏の自宅を訪ねた。氏は「池田先生は私どもにとって月並みな“友人”ではありません。格別な方です」と語るなど、終始和やかな語らいが弾んだ。
会見の最後、氏は「これをご覧になって、総理を偲んでください。先生と総理の友情の形見として」と切り出すと、総理愛用のペーパーナイフと、氏が使用していた筆立てを贈った。
先生は万感の思いを語った。
「周総理の“魂”を頂いたと思います」「日中の友好は私の信念です。全力を尽くして進みます」
この訪中の折、先生は江沢民総書記、李鵬総理と会見。永遠に崩れぬ“金の橋”を架けるため、友誼の絆を結んだ。

鄧穎超氏(右から3人目)との再会を喜ぶ池田先生(1990年5月28日、北京で)

7・25~31
ソ連への平和旅
1990年(平成2年)7月27日、モスクワのクレムリン。大統領を務めるゴルバチョフ氏が近づくと、池田先生の声が響いた。
「きょうは、大統領と“けんか”をしに来ました! 火花を散らしながら、何でも率直に語り合いましょう。人類のため、日ソのために!」
氏の笑顔がはじけた。「池田会長の活動はよく存じ上げていますが、こんなに情熱的な方だとは――」「私も率直な対話が好きです。本当に、池田会長とは、昔からの友人同士のような気がします」
語らいは、氏が進めた「ペレストロイカ(改革)」の現状と意義、青年への期待などを巡って、1時間10分に及んだ。
先生が「世界平和を愛する一人の哲学者として、大統領の訪日を念願しています」と語ると、氏は「絶対に実現させます」「できれば、春に日本を訪れたい」と明言した。この発言は一大ニュースとして日本中を駆け巡った。
氏は91年(同3年)4月、約束通り日本を訪れ、先生と再会。以来、東京、大阪、モスクワで、合わせて10度の会談を重ねた。それは、対談集『20世紀の精神の教訓』に結実している。先生は氏との出会いを振り返り、語った。
「国が違っても、イデオロギーが違っても、皆、『同じ人間』である。誠実に語りあえば、心は通じあう。平和への意志を結集できる。相手がだれであれ、わが信念を堂々と語ることだ。『勇気の対話』こそが歴史を変えるのである」
毎年春、創価大学では「周桜」「周夫婦桜」と共に、ゴルバチョフ氏夫妻が先生ご夫妻と植樹した「ゴルバチョフ夫婦桜」が、世の移ろいを超えた不変の友情を示すかのように、美しい花を爛漫と咲かせる。

ゴルバチョフ氏と池田先生がモスクワのクレムリンで初の会見(1990年7月27日)

◆年表◆
1990年
【1990年(平成2年)原点・求道の年㊤】

〈2月12日〉
アメリカ訪問(~3月1日)
アメリカ広布30周年記念代表者会議(2月13日)、第2回SGIパン・アメリカン諸国会議(15日)、第11回SGI総会(17日)等の会合に連日出席。“アメリカ広布の千年の基盤”をつくるために指導
実業家のアーマンド・ハマー博士(2月16日)、化学者のライナス・ポーリング博士(21日)、ジャーナリストで思想家のノーマン・カズンズ博士(23日)ら識者と会見

〈3月1日〉
アルゼンチンのブエノスアイレス大学から名誉博士号を受ける(代理 アルゼンチン)。記念講演「『融合の地』に響く地球主義の鼓動」を寄せる

〈3月2日〉
アルゼンチン共和国から「五月功労大十字勲章」を大統領府で受章(代理 アルゼンチン)

〈3月10日〉
メキシコのグアナファト大学から名誉教授称号を受ける(代理 メキシコ)

〈4月2日〉
戸田先生の三十三回忌法要(静岡)

〈4月17日〉
フィリピン大学のホセ・アブエバ総長と会談(東京)。後に対談集『マリンロードの曙――共生の世紀を見つめて』を発刊

〈4月25日〉
ブラジル連邦共和国から「南十字国家勲章コメンダドール章」を受章(東京)

〈4月27日〉
東京富士美術館で「コロンビア大黄金展」開会式

〈5月3日〉
学会創立60周年の「5・3」を祝賀する関西記念総会(大阪)

〈5月7日〉
中部池田記念墓地公園の開所式(三重)

〈5月27日〉
中国訪問(第7次。~6月1日)
鄧穎超氏(周恩来夫人)と会談(北京・中南海の自宅)。その折、遺品として周総理愛用のペーパーナイフ、夫人愛用の筆立てが贈られる。北京大学で「教育の道 文化の橋――私の一考察」と題し記念講演(5月28日)。江沢民総書記と人民大会堂で会見(31日)

〈6月6日〉
トルコ共和国から「トルコ・日本友好100周年記念金褒章」を受章(東京)

〈6月19日〉
国連難民高等弁務官のトールバル・ストルテンベルグ氏と会談(東京)

〈7月25日〉
ソ連訪問(第5次。~31日)
ミハイル・ゴルバチョフ大統領とクレムリンで会見(27日)。席上、大統領は翌春の訪日を明言。ソ連最高指導者の日本初訪問のニュースは全国、世界に報じられた。また、大統領は「ペレストロイカの『新思考』も、池田会長の哲学の樹の一つの枝のようなものです」と語った。二人はソ連崩壊後も一貫して友情を貫き、対談集『二十世紀の精神の教訓』を発刊

〈8月15日〉
牧口先生の教育哲学を研究するアメリカ・デラウェア大学のデイビッド・ノートン教授、インタナショナル大学のデイル・ベセル教授と会談(長野)