1982年(昭和57年)㊦
「青年の年」
24年3月7日
今、この時を逃さずに励ましを

池田先生は多忙の合間を縫って、風景や街並みにレンズを向けてきた(1992年6月、トルコで)

「4月」 初の写真展
池田先生は、写真について述べた。
「『写真』すなわち『フォトグラフ』とは、元来、『光で描く』という意味だ。私は、新たなる希望をもって、写真という『光の詩』を描き始めた」
青春時代から写真に強い関心をもっていた先生は、1970年(昭和45年)にカメラを贈られて以来、シャッターを切ることが多くなった。翌71年(同46年)ごろから、国内外での激励行の中、本格的に写真を撮り始めた。
先生の最初の写真集は、73年(同48年)1月に発刊された『写真集・月』である。各地で撮影した月の写真の中から、16点が選定された。友の励ましになればとの思いから、要請に応じて発刊に踏み切ったもので、非売品だった。
その後、先生の写真展の開催を求める声が上がる。日本写真家協会の会長を務め、先生の写真を高く評価していた三木淳氏も、「あなたの撮った写真で写真展をやるべきだ」と強く勧めた。
そうした期待に応え、「平和と文化を写す」と題した初の「池田大作写真展」が、82年(同57年)4月2日に開幕。以降、先生の写真展は、「自然との対話」との名称で、全国各地で開催されていく。
初めての海外展は、6年後の88年(同63年)5月。先生と親交が深かったフランスの美術史家ルネ・ユイグ氏が館長を務める、パリのジャックマール・アンドレ美術館で行われ、好評を博した。
これまで同写真展は、41カ国・地域、150以上の都市を巡回。鑑賞に訪れた世界中の人々に、勇気を送ってきた。
「写真が一瞬の真剣勝負であるように、人生も『今を勝つ戦い』」「今、この時を逃さず、縁する一人の生命に、希望と歓喜の光を」――先生の一枚一枚の写真に、その強い思いが凝結している。

「4月」 関西創価小学校の開校

関西創価小学校で、全てのクラスを見て回る池田先生(1982年4月12日、大阪・枚方市)

「まずたくさんの本を読み、しっかり勉強をしてください。次に、よい友だちと一緒に、正直で正義の心をもった人になってください」
1982年(昭和57年)4月10日、関西創価小学校の第1回入学式が行われ、池田先生は万感のメッセージを贈った。
4年前の78年(同53年)4月、東京創価小学校が開校。悲願であった幼稚園から大学までの創価一貫教育が完成し、先生は創立者として、未来を担う鳳雛のために全力を注いでいく。
東京創価小学校の入学式前日には、式典の練習で登校していた児童たちと一緒に校舎を回り、“即興授業”を行う。その後も、折あるごとに小学校を訪れ、子どもたちに直接激励を重ねていった。
82年4月12日、先生は、入学式から2日がたった関西創価小学校を訪問。教員の案内で、全てのクラスに足を運ぶ。
「先生だ!」――突然の来訪に、児童たちは大喜び。先生は、一人一人に温かい言葉をかけていった。
「頑張るんだよ」
「先生やお母さんの言うことをよく聞いてね」
“子どもたちに勇気と希望を”――それが創立者の思いだった。開校以降、多忙の合間を縫っては関西小へ。放課後の教室の黒板に、チョークで励ましの言葉を書き残したこともあった。創立者の姿に、教職員や保護者も胸を熱くした。
昨年、先生は東西の創価小学校の入学式のメッセージで、こう呼びかけた。
「仲良く大きく育って、日本中、世界中に、『希望の種』『幸福の種』『平和の種』をまいていってください」
創立者の深い期待に包まれながら、若芽たちは、人類の幸福、世界の平和に貢献する人材へと成長していく。

「9月19日」 第2回「世界平和文化祭」

第2回「世界平和文化祭」の開会前、雨が降る中、友へ励ましを送る(1982年9月19日、埼玉・所沢市で)

1982年(昭和57年)は、前年に続き、「青年の年」と銘打たれた年である。
第1回「関西青年平和文化祭」(3月)、第1回「中部青年平和文化祭」(4月)等々――池田先生は、自ら青年の輪の中に飛び込んでいく。その“師子の絆”は、世界の青年たちとも結ばれていった。
9月18、19の両日、埼玉の西武ライオンズ球場(当時)で、第2回「世界平和文化祭」が開催された。世界37カ国3地域の代表3000人を含め、4万人の若人が参集してのナイター行事である。
19日の開会1時間前、会場には先生の姿が。雨の中にもかかわらず、先生は傘も差さずに、グラウンドを回り始めた。時に手を振り、時に頭を深々とさげては、青年たちに万感の励ましを送っていく。スタンドは大歓声に沸いた。
師の慈愛に包まれながらの文化祭では、青年の熱演がはじけた。「平和之波」と浮かび上がった男子部のグラウンド人文字には、恒久平和への強い決意が込められていた。来賓は各界から1万2千人。手塚治虫氏は、同文化祭について、「世界平和の縮図」と賛辞を述べた。
先生は、81年(同56年)6月、米シカゴで開催された「世界平和文化祭」に出席。82年の第2回、第3回(1983年8月、北海道)、第4回(84年9月、兵庫)と、毎年足を運び、激励を重ねていく。「世界青年平和文化祭」と改称された第5回(85年7月、米ハワイ)以降も、文化祭に臨み、青年たちを鼓舞し続けた。
青年部の文化・平和運動の歴史。それは、師匠と不二で創価の魂を宣揚し抜くドラマでもあった。先生は、青年にこう期待を寄せた。「国境を超えた青年のスクラムこそ、世界を結ぶ希望の虹の橋だ」「世界の人びとの心を結び高めゆくことを、我らは『広宣流布』と呼ぶ」

◆年表◆
1982年㊦
〈4月6日〉
「平和と文化を写す――池田大作写真展」を訪れる(静岡)
以後、「自然との対話――池田大作写真展」として全国、世界各地で開催される

〈4月10日〉
関西指導(~20日。大阪、京都、兵庫)
関西創価小学校の第1回入学式に「正直で正義の人に」とメッセージを贈る(10日)。同校の全クラスを授業参観(12日)

〈4月28日〉
中部指導(~30日。岐阜)
第1回中部青年平和文化祭(29日)
来賓のソフィア大学のアクシニア・D・ジュロヴァ博士と会談。後に対談集『美しき獅子の魂――日本とブルガリア』を発刊

〈4月30日〉
関西指導(~5月6日。滋賀、大阪)

〈5月6日〉
中部指導(~12日。三重、愛知)

〈5月23日〉
長崎指導(~27日)
諫早文化会館を初訪問(23日)

〈6月3日〉
第2回国連軍縮特別総会に寄せ、「軍縮および核兵器廃絶への提言」を発表
提言は国連本部でこの日に開幕した「核兵器――現代世界の脅威」展(国連広報局、創価学会、広島市、長崎市の主催)の折、学会代表団からハビエル・ペレス・デクエヤル国連事務総長に手渡される。同展はその後、88年まで世界各国を巡回

〈6月19日〉
北海道指導(~29日)

〈8月18日〉
東北指導(~23日。宮城)

〈8月24日〉
デクエヤル国連事務総長と会談(東京)

〈9月8日〉
北陸指導(~13日。石川、富山)

〈9月19日〉
第2回世界平和文化祭(埼玉・西武ライオンズ球場)

〈9月21日〉
第3回SGI総会(神奈川)