| 1981年(昭和56年)㊦ 「青年の年」 23年12月17日 |
| 驕れる波浪よ なにかせむ 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第23回は、「青年の年」と銘打たれた1981年(昭和56年)の㊦を掲載する。 「11月14日」 「紅の歌」が誕生 共戦の四国闘争 ![]() 「紅の歌」の制作は、訪問先や移動の車中でも行われた(1981年11月14日、香川・四国婦人会館〈当時〉で) 1981年(昭和56年)9月6日付の聖教新聞2面で、徳島講堂の完成を祝賀する行事に、池田先生が出席予定であることが報じられた。先生の行事出席の予告は異例のことだった。 第1次宗門事件の嵐が吹き荒れる中、徳島の同志は、僧侶からの卑劣な仕打ちに悔し涙を流していた。 徳島講堂完成を記念する諸行事は、11月7日からスタート。しかし、要人との会見などの要請を受け、先生の徳島訪問が実現するかは分からなかった。 そうして迎えた9日、落成記念勤行会が開催される。式次第が進んでいく中、会場後方の扉が開いた。 「とうとう来ましたよ! 約束を果たしにまいりました!」 そこには、先生の姿があった。大歓声に沸いた。 「冬は必ず春となることを確信して、勇気ある信心を!」――先生は同志に訴えた。師と弟子の心は一つになった。 前年に始まった反転攻勢の助走は、いよいよ加速度を増し、師弟共戦の「四国闘争」が幕を開けたのである。 翌10日、先生は香川へ。記念幹部会に出席すると、師子吼を放つ。 「もう一度、私が指揮を執らせていただきます!」「私の心を知ってくださる方は、一緒に戦ってください!」 徳島から香川に向かう途次、四国青年部の依頼を受け、先生と青年部との懇談が12日に行われることが決まっていた。 “先生に、四国の未来は大丈夫だと安心していただきたい”――強い決意を込め、彼らは愛唱歌を制作。懇談の直前に歌が完成した。 曲を聴き、歌詞を見た先生は言った。「よし、君たちのために、私が手伝おう!」 そして、冒頭を『ああ紅の……』とすることなどを提案し、青年たちと対話しながら、1番から3番まで歌詞に直しを入れていった。曲名は、「紅の歌」と決まった。 「広宣流布の反転攻勢を宣言した証明となる歌を完成させるよ」 先生は、会合や記念撮影等の激励の合間を縫いながら、二十数回の推敲を重ね、14日の夜、同歌が誕生するのである。 「紅の歌」の制作の模様を描いた小説『新・人間革命』第30巻〈下〉「勝ち鬨」の章には、山本伸一が歌詞の意味をかみ締めながら、心で呼びかける場面がある。 「青年よ、恐れるな! 『驕れる波浪』を、そして、一切の障魔を打ち砕いて、前へ、前へと進みゆくのだ」 “障魔を打ち破るべく前へ”“苦しむ友のもとへ”――翌15日、先生は四国をたち、関西へ。さらに中部、東海道と反転攻勢の激励行は続いた。12月2日の夜、帰京すると、8日には、休む間もなく九州へと向かった。 ![]() 四国から関西に入った池田先生は、第3回関西総会に出席。「嗚呼黎明は近づけり」の指揮を執った(1981年11月22日、大阪・関西戸田記念講堂で) 「12月10日」 「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」を発表 苦しむ友のもとへ 「さあ、戦うよ! 大分決戦だ。大逆転の栄光のドラマが始まるよ!」 12月8日、大分の空港に到着した池田先生は、集まった同志を前に、高らかに宣言した。 13年半ぶりの訪問となった大分は、第1次宗門事件の“発火点”の一つだった。“最も苦しんだ同志のところへ駆けつけよう!”――この日、先生は、別府文化会館、大分平和会館を次々と訪れ、同志に真心の励ましを送っていく。 大分平和会館での懇談会の席上、先生は青年への思いを述べた。 「青年が盤石ならば、大分の未来は盤石だよ。青年たちに、前進の励みになるような、何か指針を残したいな」 81年は、戸田先生が「青年訓」を発表してから30周年に当たっていた。 10日午後、池田先生は、同会館の管理者室で同志を激励。同席していた青年たちから、同日夜の幹部会で、新たな決意を込めた“正義の詩”を発表する予定であることを聞くと、こう語った。 「よし、ぼくが作って贈ろう!」 そして、口述が始まった。 「『なぜ山に登るのか』『そこに山があるからだ』と、かつて、ある著名な登山家は言った」 先生の言葉を一言も漏らすまいと、青年たちが必死に書き取っていく。 先生は、“皆が21世紀の大人材に!”と祈るような思いで口述を行い、「21世紀の山」を登るために、「直面する日々の現実の山」を、一歩一歩、登りきることの大切さを強調した。 午後4時、先生は県の代表との懇談へ。その間、青年たちは必死で清書を進めた。5時半、戻ってきた先生はすぐに推敲に入り、再び口述が始まった。県青年部幹部会の開始時間が迫っていた。 先生が会場に入った時、幹部会はすでに始まっていた。別室で進められていた清書は結局、完全には終わらないまま、会場に届けられた。そして、先生の指導の最後で、青年部幹部が読み上げる形で、「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」が劇的に発表されたのである。 翌日付の聖教新聞に掲載され、瞬く間に全国へ広がった。後に、曲が付けられ、学会歌「青年よ広布の山を登れ」として歌われていく。 12日、先生は熊本に移動。その途上、大分の岡城址で竹田のメンバーと記念のカメラに納まり、「荒城の月」などを合唱し、師子の絆を強めた。 大分、熊本、福岡での9日間に及ぶ九州指導によって、同志は希望みなぎる新たな出発を切ったのである。 ![]() 長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」の発表の場となった大分県青年部幹部会(1981年12月10日、大分平和会館で) 1981年㊦ 〈7月1日〉 詩人の国際団体「世界芸術文化アカデミー」から「桂冠詩人」の称号が贈られる 〈8月20日〉 ハワイ訪問(~28日) 第2回SGI総会(24日) 〈9月17日〉 民音が招へいしたミラノ・スカラ座の日本初公演でオペラ「ボエーム」を鑑賞(東京) 〈10月31日〉 第11回創大祭オープニング・セレモニーで「歴史と人物を考察――迫害と人生」と題し講演 〈11月9日〉 四国指導(~15日。徳島、香川) 徳島講堂落成記念勤行会(9日) 「香川の日」を記念する香川県幹部会(10日) 四国青年部の代表と懇談(12日、香川) 代表が携えた愛唱歌の歌詞の案を数日間にわたり推敲し、「紅の歌」として発表(16日) ※この四国指導で再び広布の指揮を執ることを宣言。本格的な反転攻勢が始まる 〈11月15日〉 関西指導(~27日。大阪、和歌山、奈良、滋賀、福井) 〈11月27日〉 中部指導(~30日。岐阜、愛知) 〈12月8日〉 九州指導(~16日。大分、熊本、福岡) 大分県青年部幹部会で、詩「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」を発表(10日) 岡城址(大分)で竹田の友と記念撮影し、「荒城の月」を大合唱(12日) 熊本文化会館で自由勤行会 近隣の公園で水俣・人吉・八代・天草のメンバーと記念撮影し、「田原坂」を大合唱(15日) ※年表は『栄光の共戦譜』から転載 ![]() 民音の招へいで実現した、ミラノ・スカラ座の初来日公演「オテロ」(1981年9月、東京・NHKホールで) |