1980年(昭和55年) 「地域の年」 23年10月20日 |
「1・14」 「さんふらわあ7」号![]() 神奈川の横浜港で、愛媛の同志を見送る池田先生(1980年5月20日) 「先生! 先生!」――1980年(昭和55年)1月14日、神奈川・横浜の港に、四国の同志の求道の声が響いた。 この日の正午前、約800人の四国のメンバーを乗せた「さんふらわあ7」号が横浜に到着。神奈川文化会館に滞在していた池田先生は、友を出迎え、下船した同志に笑顔で語りかけた。 「よく来たね。これで勝った! 21世紀が見えたよ。君たちが新しい広布の突破口を開いたんだ」 前年4月24日の第3代会長辞任の後、四国では、師の来訪を望む声が強まっていた。広布破壊の謀略が渦巻く中にあって、四国の幹部たちは決意を固める。 “先生の行動が制約されているのなら、私たちの方から、お伺いしよう!” その求道心を、ことのほか喜んだのが先生だった。 「さんふらわあ7」号が到着した日の午後、神奈川文化会館で四国・神奈川の交流幹部会が開催される。先生は参加者をねぎらうと、直後の懇談会で“大楠公”等をピアノ演奏し、温かく激励した。 同日夜、四国のメンバーは船で帰路に就いた。出航したばかりの船から、神奈川文化会館の最上階に明かりが見えた。先生と香峯子夫人が懐中電灯を振り、最後の最後まで見送っていたのである。 この年、5月17日には徳島の友が、20日には愛媛の友が、「さんふらわあ7」号に乗り、神奈川にいる師匠のもとへ。四国の同志の求道の航海は、計3回、約3000人に及んだ。 師弟の絆は、逆境の時こそ輝きを増す。 先生は、当時を振り返り、こう述べた。 「いちばんたいへんなときに、真っ先に私のもとに来てくださったのが、いちばん遠い四国の方だった。これが四国の方の心なのです」 「4、5月」 「反転攻勢」の助走を開始 ![]() 1980年5月5日、池田先生は、関西文化会館で開催された女子部部長会に出席 1980年(昭和55年)4月30日、本紙1面を見た同志に歓喜の激震が走った。第5次訪中から帰国の途に就いた池田先生が、長崎での記念幹部会に出席する模様が報じられたのだ。 「名誉会長は、長崎のあと福岡、関西、中部の会員の激励・指導に当たる予定になっている」と記事に加えられていた。 第1次宗門事件の渦中、宗門側は、名誉会長となった先生に、“会合で指導してはいけない”“聖教新聞に出てはいけない”等と要求した。 前日の29日、聖教新聞の記者が、長崎での激励の足跡を報道させてほしいと請うと、先生は言下に答えた。 「かまいません。事実を隠す必要はない。創価の師弟が分断され、不二の心が失われていけば、広宣流布はできない。だから私は、同志と共に戦いを開始します。私の今後の予定も発表しよう。さあ、反転攻勢だ! 戦闘開始だよ!」 第1次宗門事件の暗雲を払う“反転攻勢の助走”が開始されたのである。 4月30日、長崎駅を出発する先生のもとに集まった友に、こう呼びかけた。 「一緒に、もう一度、新しい創価学会をつくりましょう」 同日、福岡に到着した先生は、翌5月1日、九州平和会館(当時)での福岡県本部長会に臨んだ。「『広宣流布の胸中の旗』を、断じて降ろしてはならない!」「『折伏の修行の旗』を、決して降ろしてはならない!」「『一生成仏の、信心の炎の光』を消しては絶対にならない!」と繰り返し訴えた。 2日昼に空路で福岡をたち、大阪に入ると、3日、関西文化会館で行われた記念勤行会に出席。喜びにあふれる関西の同志に期待を寄せた。 「大関西は、日本、全世界の模範となり、永遠に広宣流布の先駆となってください。私も関西の皆さんと共に、新しい常勝の歴史を、新しい人生の歴史を、生涯、綴っていく決意であります」 その日の夜、筆を執った。「五月三日」と大書すると、脇書に、「昭和二十六年五月三日」「昭和三十五年五月三日」「昭和五十四年五月三日」等、節目となる五月三日を列記し、こう加えた――。「此の日は わが学会乃原点也」「昭和五十五年五月三日 記す」「心爽やかなり 合掌」 先生は、2日から8日までの1週間の関西指導で、7万人以上の同志を激励。8日午後、名古屋へと向かう。 9日には、先生の提案で、愛知の中部文化会館(当時)で自由勤行会が開催された。午前中だけで5回。喉を痛めてもなお、中部の友のためならばと、午後も5回、6回と勤行会が続けられた。 2日後の11日、岐阜文化会館(当時)と各務原文化会館を訪問。両会館でピアノを弾き、万感の励ましを送る。さらに、中部滞在中、勤行会などの合間に100回を超える記念撮影が行われた。 12日から14日までの静岡指導でも、第一線の同志の輪の中に飛び込み、絆を結び続けた先生。 4月29日の長崎から始まった各地での激励は、計15万人以上に及んだ。先生自らの渾身の激励によって、創価の金剛の団結は強まり、謀略の鉄鎖が断ち切られていくのである。 ![]() 福岡へ向かう特急列車で、発車直前まで激励を送る(1980年4月30日、長崎駅で) ![]() 岐阜文化会館(当時)を訪れ、ピアノを弾いて友を励ました(1980年5月11日) 1980年 ◆年表 〈1月14日〉 四国・神奈川交流幹部会(神奈川)。客船「さんふらわあ7」号で、神奈川文化会館を訪れた四国4県の代表を激励。その後、5月17日に徳島、同月20日に愛媛の友が客船で来訪し、計3回、池田先生のもとに集った約3000人の同志を励ます 〈4月1日〉 「大白蓮華」4月号に随想「恩師と桜」を発表。5月号には随想「永遠たれ 五月三日」、7月号には随想「忘れまじ七月三日」を発表し、創価の師弟の真髄を示す 〈4月5日〉 中国作家協会第一副主席の巴金氏、同理事の謝冰心氏らと会談(静岡) 〈4月21日〉 中国訪問(第5次。~29日) 鄧穎超氏(周恩来夫人)の招きを受け、北京・中南海の自宅を訪問。北京大学で「新たな民衆像を求めて――中国に関する私の一考察」と題し記念講演(22日)。敦煌文物研究所の常書鴻所長と会談(23日)、後に対談集『敦煌の光彩――美と人生を語る』を発刊。華国鋒主席と人民大会堂で会見(24日) 〈4月29日〉 九州指導(~5月2日。長崎、福岡) 中国からの帰途、長崎へ。長崎支部結成22周年記念幹部会(29日)。九州文化会館で会員を激励。福岡県本部長会(5月1日) ※4月30日付「聖教新聞」に、今後の会員激励の予定が発表され、以後、会合での指導等が報道されていく。新しい広布の扉を開くため、反転攻勢の助走を開始 〈5月2日〉 関西指導(~8日。大阪) 福岡から大阪へ(2日)。「創価学会の日」記念勤行会。「五月三日」を揮毫。脇書に「此の日は わが学会乃原点也」等と記す(3日)。第5回「後継者の日」記念勤行会(5日)。全国県長会議。昼夜2回開催された自由勤行会に出席、質問会を行う(7日) 〈5月8日〉 中部指導(~14日。愛知、岐阜、静岡) 中部の支部長・支部婦人部長会(9日、愛知) 〈7月29日〉 聖教新聞で「忘れ得ぬ同志」の連載を開始。草創期を共に戦った故人の尊き生涯を顕彰する 〈8月10日〉 2年間、休載していた小説「人間革命」の連載を再開(第11巻「転機」の章) 〈9月30日〉 アメリカ訪問(~10月21日) シカゴ文化祭(10月12日) 第1回SGI総会(17日) 〈10月24日〉 民音が招へいしたウィーン国立歌劇場の日本初公演でオペラ「フィガロの結婚」を鑑賞(神奈川) 〈11月18日〉 学会創立50周年記念慶祝式典。創立百周年を展望し、妙法を根本に平和と教育の推進に尽くしてきた学会の大民衆運動の第二幕が開いたことを語る(創価大学) 〈12月18日〉 アメリカの平和学者、ハワイ大学のグレン・ペイジ教授と会談(東京) ※年表は『栄光の共戦譜』から転載 |