1978年(昭和53年)
「教学の年」第2年
23年08月18日
一人一人が太陽の存在に!
池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第19回は、「教学の年」第2年と銘打たれた1978年(昭和53年)を掲載する。

「1・6」「支部制」の発表

東京・杉並の方南支部結成大会で、老婦人に花束を手渡す。「ご長寿を祈っております」と(1978年1月27日、杉並文化会館で)

1978年(昭和53年)1月6日に行われた本部幹部会で、広布第2章の「支部制」の実施が発表され、従来の「総ブロック」が、「支部」へと移行することになった。
戸田先生が第2代会長に就任する直前の51年(同26年)4月、学会は12支部の陣容で出発し、広布拡大の火ぶたが切られた。池田先生は、広布第2章の「支部制」を設置することで、草創の支部のような“清新の息吹”を巻き起こそうと深く決意していたのである。
78年1月21日の本部幹部会で、新支部体制がスタート。池田先生は、「支部制」を軌道に乗せるため、松山支部結成18周年記念勤行会(1月18日)、奈良支部結成17周年記念幹部会(25日)などに足を運び、励ましを送る。
さらに、27日、全国に先駆けて開催された東京・杉並の方南支部結成大会に出席し、「支部」の意義について語った。
「支部は地域における学会本部であると決めて、各人が地域に仏法を打ち立て、展開していただきたい」
30日の第2東京支部長会では、支部長代理として奔走した当時を思い起こしながら、同志の奮闘をねぎらった。
「広布第2章の『支部制』にあたり、“折伏精神”を、学会の隅々にまで燃え上がらせなければならない」――現在へと続く「支部制」の発足に当たって、先生が心に期したのは、学会の根本精神に立ち返ることだった。
“折伏精神”の意義について、先生はつづる。「周囲の人びとに真実の仏法を教え、必ず幸せになってもらおうという一念を燃え上がらせてこそ、すべての活動に魂が込められ、歓喜が湧く。そして、人との触れ合いは、そのまま、仏縁の拡大となるのである」

「4・15」埼玉文化合唱祭
「4・23」三重文化合唱祭


三重文化合唱祭での同志の熱演をたたえ、ピアノを演奏する池田先生(1978年4月23日、三重研修道場で)

「どんな宿命の試練にさらされようが、“希望の歌”“勇気の歌”“喜びの歌”を、さわやかに、さっそうと口ずさみながら、幸せの航路を、勇躍、進んでまいろうではありませんか!」
1978年(昭和53年)4月15日、大宮市(現・さいたま市)で行われた埼玉文化合唱祭で、池田先生は力強く呼びかけた。
この年、第1次宗門事件によって、宗門の僧らによる学会攻撃が激しさを増していた。そんな中、全国各地で“師弟共戦の合唱祭”が開催されていく。
同月23日、先生は三重文化合唱祭に出席。当初、宗門を刺激しないようにと、婦人部の愛唱歌「今日も元気で」は歌わない方向に決まっていた。明るく軽快なこの歌は、“いつも師と共に広宣流布に進もう”との心を託した学会歌だ。
「師匠を求める私たちの思いがこもった歌を、どうして歌うことが許されないのか!」――三重婦人部の強い求道心によって、「今日も元気で」は歌われることに。会場の三重研修道場に、正義の歌声が轟いたのである。
この78年は、6月以降、先生が30曲に及ぶ学会歌を制作した年でもあった。
学生部の「広布に走れ」、白蓮グループの「星は光りて」、未来部の「正義の走者」、そして各方面・県の歌などを手がけ、次々と発表していった。
当時の思いについて、小説『新・人間革命』第28巻「大道」の章で、こう述べている。
「学会歌は決意と共にある。ゆえに、その歌声の轟くところに、勝利の太陽が昇るのだ」
正義の合唱祭と歴史に輝く各学会歌の誕生から45星霜――広宣流布大誓堂完成10周年の勝利を呼ぶ、創価の声が響く。

「10・7」勝利島部の日

徹底して同志と共に――島の地域交流の場となった「八重山祭」で、池田先生は踊りの輪の中へ(1974年2月3日、石垣島で)

第3代会長に就任した池田先生は、離島の友の激励に駆け巡ることを念願としてきた。「最も苦しんできた同志を、最大に励まし、最高に讃えなくてはならない」――その思いが、先生の信条だった。
島には、それぞれの風俗や伝統、習わしがある。それゆえ、学会に対する誤解や偏見が生じ、弾圧を受けた地域もあった。しかし、迫害の嵐が吹き荒れた島でも、先生からの励ましを胸に信頼の輪を広げる中で、学会への「非難」は「称賛」へと変わっていった。
1974年(昭和49年)1月14日、離島本部の発足が発表され、離島の同志は、さらなる地域貢献へと力を注いだ。
78年(同53年)10月7日、離島本部の第1回となる総会が、信濃町の創価文化会館(当時)で開催された。北海道の礼文島や沖縄の与那国島など、全国約120の島々から“広布の勇者”が集った。
先生は会場に入ると、「ようこそ!」と参加者の中を進み、場内を一巡。ほとんどの友が学会本部を訪れるのも、先生に会うのも初めてだった。
先生は、各島の苦労をたたえるとともに、離島広布の要諦を語った。
「信心強盛な一人の学会員がいれば、島全体が希望に包まれ、歓喜に満たされていきます。どうか皆さんは、一人ひとりが、その太陽の存在になっていただきたい」
師の言葉は、不滅の指針として、同志の心に刻まれた。
2015年(平成27年)、小説『新・人間革命』で「勝利島」の章が連載される。同年11月、部の名称を「勝利島部」として新出発を切り、「10・7」も「勝利島部の日」に。「10・7」45周年を刻む本年、友は“世界一の幸福島”を目指し、それぞれの島で、さらに献身を重ねている。

◆年表◆
1978年
〈1月6日〉
第219回本部幹部会で広布第2章の支部制を発表(東京)
「総ブロック」が「支部」となる

〈1月8日〉
第10回教学部大会(東京)

〈1月12日〉
アメリカのエドワード・M・ケネディ上院議員と会談(東京)

〈1月14日〉
「第2東京婦人部の日」記念勤行会(東京)

〈1月16日〉
四国指導(~23日。愛媛、香川)

〈1月23日〉
関西指導(~26日。大阪、奈良)

〈1月27日〉
杉並・方南支部結成大会(東京)

〈1月30日〉
広布第2章初の第2東京支部長会(東京)

〈2月19日〉
第1回信越男子部幹部会(東京)
ホイットマンの詩を通して指導。「さあ、出発しよう! 悪戦苦闘をつき抜けて! 決められた決勝点は取り消すことができないのだ」(『詩集 草の葉』富田砕花訳)は、青年部の合言葉となる

〈4月9日〉
東京創価小学校第1回入学式を祝し、全新入生と記念撮影(東京)

〈4月15日〉
第1回埼玉文化合唱祭

〈4月21日〉
中部・関西指導(~29日。愛知、三重、大阪、兵庫)
三重県第1回文化合唱祭(23日)

〈5月3日〉
創価功労賞ならびに広布功労賞表彰式典(創価大学)

〈5月13日〉
九州・中国指導(~22日。鹿児島、福岡、山口、広島、岡山)

〈5月27日〉
東北・栃木指導(~31日。宮城、福島、栃木)

〈5月――〉
5月に始まった初の国連軍縮特別総会にあたり、核軍縮、核廃絶へ10項目の提言を行う

〈6月8日〉
北海道指導(~23日)

〈6月25日〉
第1回団地部東日本大会(東京)

〈6月30日〉
学生部結成21周年記念幹部会(東京)

〈7月17日〉
関西・中国・四国・中部指導(~29日。大阪、京都、岡山、鳥取、香川、愛知、岐阜)

〈8月9日〉
九州指導(~17日。宮崎、鹿児島)

〈8月22日〉
長野指導(~25日)

〈9月9日〉
関西指導(~11日。大阪)

〈9月11日〉
中国訪問(第4次。~20日)
南京の雨花台烈士陵園で献花。新中国建設や日中戦争の中で犠牲となった人々の冥福を祈る(16日)。故・周恩来総理夫人の鄧穎超氏と懇談(17日)。上海、蘇州、無錫、南京、北京などを訪問

〈10月7日〉
第1回離島本部総会(東京)。同本部は後に勝利島部となる

〈10月10日〉
アメリカの経済学者、ハーバード大学のジョン・ケネス・ガルブレイス博士と会談(東京)。後に対談集『人間主義の大世紀を――わが人生を飾れ』を発刊

〈11月7日〉
創価学会創立48周年記念代表幹部会(静岡)

〈11月9日〉
関西指導(~15日。大阪、兵庫)

〈11月18日〉
第230回創価学会創立48周年記念本部幹部会(東京)

〈11月19日〉
創立48周年記念提言「環境問題は全人類的な課題」を発表

〈11月29日〉
関西・中部指導(~12月4日。大阪、三重)

〈12月4日〉
四国指導(~13日。高知、香川)

〈12月25日〉
国際宗教社会学会初代会長でイギリス・オックスフォード大学のブライアン・ウィルソン教授と会談(東京)。後に対談集『社会と宗教』を発刊

※この年、多くの学会歌等の作詞や作曲を手がけ、相次ぎ発表した