1975年(昭和50年) 「教育・家庭の年」 23年05月17日 |
妙法という平和の種を蒔く 「1・26」SGIの結成 ![]() グアムで行われた「世界平和会議」でSGI会長に就任し、スピーチする池田先生(1975年1月26日) 1975年(昭和50年)1月26日、米グアムの国際貿易センタービルに世界51カ国・地域の代表158人が集い、第1回「世界平和会議」が開かれた。 池田先生ご夫妻は、午前11時過ぎに会場に到着。先生は、入り口に置かれていた署名簿に氏名を書いた後、国籍欄に「世界」と記す。 先生の心は、恩師が示した“人々は皆、地球民族である”との「地球民族主義」の理想に燃えていた。 グアムは戦時中、残酷な犠牲を強いられてきた悲劇の舞台だった。先生は、“このグアムを世界平和の発信地に”と、同地で平和会議を開くことなどを提唱。そして、「世界平和会議」の開催が実現したのである。 会議の席上、創価学会インタナショナル(SGI)が発足し、世界広布の新章節が開かれた。参加者の総意によってSGI会長に就任した先生は、スピーチの中で呼びかけた。 「皆さん方は、どうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」 83年(同58年)から、先生は1・26「SGIの日」に合わせ、平和提言を世界に発信してきた。人類が直面する諸課題に対し、仏法の人間主義思想に立脚した提言を続け、「持続可能な開発のための教育の10年」等、多くの提案が実を結んでいる。 「SGI――それは、世界を結ぶ異体同心の絆である。それは、世界平和の赫々たる光源である」(小説『新・人間革命』第21巻「SGI」の章)。この精神を胸に、192カ国・地域に広がる創価の友は、使命の地で友情の絆を広げる。 「5・16」ペッチェイ博士と対談 ![]() アウレリオ・ペッチェイ博士と4度目の会談。再会を喜び合った(1982年1月、都内で) 世界的なシンクタンクであるローマクラブのリポート『成長の限界』は、1972年(昭和47年)に出版され、世界に衝撃を与えた。“このまま経済成長が続けば、環境汚染等によって人類は破局を迎える”との警告を発する一書だ。 同書の出版から3年後、75年(同50年)5月16日、ローマクラブの創立者、アウレリオ・ペッチェイ博士と池田先生との会談が、フランス・パリで実現した。博士と会うことを池田先生に勧めたのは、歴史学者のトインビー博士だった。 ペッチェイ博士は戦時中、ファシズムへの抵抗運動の中で投獄され、激しい拷問を耐え抜いた経験を持っていた。戦後は、人類が直面する地球的問題群を研究し、「人間性の革命」を訴えてきた。 生命の根源的な変革に取り組む学会の「人間革命」運動に深い共感を示す博士は、小説『人間革命』(英語版)を携え、先生との対談に臨んだ。そしてこう述べた――「私は、今まで、『人間性の革命』を唱え、行動してきましたが、それをさらに深く追究していくならば、究極は『人間革命』に帰着する」。 多くの点で共鳴し合った2人は、計5度の語らいを重ね、対談集「21世紀への警鐘」が発刊される。 ローマクラブの現・共同会長であるマンペラ・ランペレ博士は、今置かれている地球的な危機を乗り越えるには、ペッチェイ博士と池田先生が提唱し続けてきた「人間革命」を推進するしかないと強調。一人一人が、自分自身と向き合うことが大切であり、「『新たな人類文明』とは『人間革命』を実践する人間が築く文明なのです」と語っている。 不安の闇が深まる世界にあって、私たちの「人間革命」の行動こそが、人類を照らす希望の光となろう。 「11・8」原爆慰霊碑に献花 ![]() 広島の平和記念公園で、原爆死没者慰霊碑に献花する池田先生(1975年11月8日、広島で) 原爆投下から30年となる1975年(昭和50年)、池田先生は11月8日に、広島市にある平和記念公園を訪問。被爆2世の代表と共に、原爆死没者慰霊碑に献花し、反戦平和への深い祈りを捧げた。そして、同行する青年たちに語りかけた。「私は、平和への闘争なくして、広島を訪ねることはできないと思っています」 先生は、東西冷戦の真っただ中にあって、前年の74年(同49年)から、わずか1年半のうちに、中国を3度、ソ連を2度訪問。両国の要人との対話を重ねる。 75年1月には、アメリカを訪れ、国連本部で国連事務総長と会談。その席上、青年部が展開し、日本全国の1000万人以上から集めた、戦争の絶滅と核廃絶を訴える署名簿を手渡した。この訪米の際、キッシンジャー米国務長官とも初めて会談する。分断された世界を、友情の対話で結びながら、75年11月の広島訪問を迎えたのである。 慰霊碑訪問の翌9日、広島市内での本部総会で、先生は“核兵器廃絶には、核兵器を絶対悪とする、揺るがざる根本の哲学が不可欠である”ことを力説。 さらに、核保有国が「核兵器の先制不使用」を宣言することや、広島の地で、核廃絶に向けての国際平和会議を開催することなどを提案した。 “広島こそ平和原点の地”との先生の思いは変わらない。 今月19日から行われるG7(主要7カ国)広島サミットに向け、「危機を打開する“希望への処方箋”を」と題する提言を発表し、こう述べている。 「民衆の力で『歴史のコース』を変え、『核兵器のない世界』、そして『戦争のない世界』への道を切り開くことを、私は強く呼びかけたい」 ◆年表◆ 1975年 〈1月6日〉 アメリカ訪問(~28日) 国連本部で核廃絶1000万署名簿を国連事務総長に提出(10日) ヘンリー・A・キッシンジャー米国務長官と国務省で会談。中東問題、米中問題、SALT(米ソ戦略兵器制限交渉)などについて語り合う(13日)。対話の継続を約し、後に対談集『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』を発刊 〈1月26日〉 世界51カ国・地域の代表が集い、グアムで第1回世界平和会議 創価学会インタナショナル(SGI)が発足し、SGI会長に推挙され就任(アメリカ) 〈2月1日〉 日本経済新聞に「私の履歴書」が連載される(~3月4日) 後に単行本として刊行 〈4月7日〉 創価大学の滝山寮入寮式 新寮生となる日中国交正常化後初の中国からの国費留学生6人を歓迎。広く日本文化を学び、人格の完成を目指し、有意義な学生生活を送るように語る 〈4月14日〉 中国訪問(第3次。~22日) 北京大学を訪問(15日)。亡命中のカンボジアのシアヌーク殿下と北京で会見(18日)。武漢大学(19日)、復旦大学(21日、上海)へ図書贈呈 〈5月13日〉 欧州・ソ連訪問(~30日。フランス、イギリス、ソ連〈第2次〉) イタリアの実業家でローマクラブの創立者アウレリオ・ペッチェイ氏と対談(16日、フランス)。後に対談集『21世紀への警鐘』を発刊 ソ連婦人委員会議長で、初の女性宇宙飛行士、ワレンチナ・テレシコワ氏と懇談(26日、ソ連) モスクワ大学から名誉博士号を受ける。名誉学術称号の第1号となる。「東西文化交流の新しい道」と題し記念講演(27日) 〈7月22日〉 ハワイ訪問(~31日) 第12回全米総会(26日) 〈8月7日〉 外国航路の船員らの人材グループ「波濤会」のメンバーと記念撮影(創価大学) 〈8月12日〉 教育部夏季講習会の全体集会(創価大学) 〈8月26日〉 第1回二部学生大会にメッセージを贈り、二部学生の人材育成グループ「飛翔会」を結成 〈9月9日〉 女子部学生局の幹部会(東京) 〈9月15日〉 第3回ドクター部総会(東京) 〈9月28日〉 女子部の人材育成グループ「青春会」を結成(神奈川) 〈11月2日〉 池田先生の提案により、中国からの留学生と創大生の手で周総理の偉業をたたえ「周桜」が創価大学のキャンパスに植樹される 〈11月6日〉 京都・広島指導(~12日) 平和記念公園を訪問し、原爆死没者慰霊碑に献花(8日、広島) 第38回本部総会(9日、広島) |