1974年(昭和49年)
「社会の年」
23年04月20日
生命尊厳の世紀を開け
「4・1」初の海外学術講演


米カリフォルニア大学ロサンゼルス校で講演する池田先生。場内は大拍手に包まれ、多くの学生が握手を求めた(1974年4月1日)

1974年(昭和49年)4月1日、アメリカの名門・カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で、池田先生の講演が行われた。海外の大学・学術機関で初の講演である。
当時、東西冷戦が続く中、オイルショックによって世界的なインフレと不況に突入。激動の時代にあって、新たな哲学が求められていた。
「21世紀への提言」と題する池田先生の講演が始まったのは、日本時間では、戸田先生の祥月命日である4月2日の朝だった。会場は教授や学生などで満員だった。
講演に際し、池田先生は心の中で恩師に語りかけた。“これから先生に代わって、先生にお教えいただいた仏法の生命論の一端を語ってまいります。世界に向かって、創価思想の叫びを放ちます”
先生は講演の中で訴えた。
「きたるべき21世紀は、結論して言うならば、生命というものの本源に、光が当てられる世紀であると思っております。否、そうあらねばならないと信じています」
さらに、生命尊厳の世紀を築くためには、欲望に振り回される「小我」の生き方から、大宇宙の根本法に則った「大我」の生き方への転換が必要であると強調したのである。
1時間15分の歴史的な講演に対し、「人類の未来開拓へ、根本的な道標を示した、重要な意義をもつもの」(ネイサン・サビラ教授)など、数多くの称賛の声が寄せられた。
人類の未来のため、世界平和のため、先生が重ねてきた海外での学術講演は32回に及ぶ。仏法の人間主義思想が示す道標は、混迷の闇を深める世界にあって、光彩を放っている。

「4・19」ルネ・ユイグ氏と初会談

ユイグ氏㊨が館長を務めるジャックマール・アンドレ美術館を訪問し、語らう(1983年6月22日、フランス・パリで)

世界的な名画「モナ・リザ」の日本展のために来日していた、フランスの美術史家ルネ・ユイグ氏が、池田先生と初めて会見したのは1974年(昭和49年)4月19日。氏は、第2次世界大戦の際、ルーブル美術館の芸術品をナチスから守り抜いた文化の闘士である。
東京の旧聖教新聞本社で行われた約1時間半の対談で、2人は意気投合。
氏は、「(池田先生は)芸術を愛し、私のように芸術を分かち合いたいと思っている人だ」と感想を述べた。同席したリディ夫人は、“一目惚れの友情が生まれた”と振り返っている。
以来、2人は10度を超える会見を重ね、対談集『闇は暁を求めて』が発刊された。
対談の中で、氏は「物質だけを追い求める」物質主義の克服を訴え、精神の復興を希求。さらに、「池田会長と私との友情は、『精神の復興』のための精神の共同戦線です」と呼びかけている。
「眼で詠まれた詩」――氏は、先生が撮った写真を高く評価していた。88年(同63年)5月、氏が館長を務めるパリのジャックマール・アンドレ美術館で、「自然との対話――池田大作写真展」の、初の海外展が開催された。この時、写真の選定からレイアウトまで、すべてを手がけたのが氏だった。氏は、東京富士美術館の開館を力強く支え、コレクションの形成にも尽力した。
ある時、先生と語り合った氏は、こう力説した。
「結局、私が最も要請しているのは『人間革命』です。私は、この人間革命の夜明けへ、一人の『ヨーロッパの義勇兵』として戦います!」「精神の闘争なき文明は滅びる。今こそ精神のための闘いを始めましょう」

「12・5」周恩来総理と会見

周恩来総理㊧は日中友好の未来を、自身より30歳も若い池田先生に託した(1974年12月5日、中国・北京で)

1974年(昭和49年)、池田先生は世界各地に平和旅の足跡を刻んでいった。
5月30日には中国への第一歩をしるし、9月8日には、モスクワ大学の招待を受けて、ソ連(当時)を初訪問。ノーベル賞作家のショーロホフ氏、コスイギン首相らと相次いで対談した。
そして12月、先生は2度目の訪中を果たす。滞在最後の夜となる5日、中日友好協会の廖承志会長が先生に告げた。
「実は周恩来総理が待っておられます」
その日の午前に会談した鄧小平副総理の話では、総理は半年ほど入院が続いており、病状は重いとのことだった。先生は丁重に辞退した。しかし、廖会長が、“総理は万難を排しても池田先生と会う決心である”と伝えると、こう答えた。
「わかりました。お会いさせていただきます。しかし、ひと目、お会いしたら失礼させてください」
先生の一行は、総理が入院している305病院に向かった。先生が車を降りて中に入ると、周総理が待っていた。痩せていたが、全身から気迫を感じた。
総理は、先生が日中友好に尽力してきたことを高く評価し、全世界が平等な立場で助け合い、努力することの大切さを訴えた。先生は、一つ一つの言葉を受け止めていった。病を押しての約30分の会見は、2人の最初で最後の語らいとなったが、永遠の友情の絆が結ばれたのである。
昨年は日中国交正常化50周年。記念行事として、総理の生涯をたどる写真展「桜よ海棠よ永遠に――周恩来と日中友好」が、両国の各都市を巡回した。
本年、「日中平和友好条約」締結45周年、先生の「日中国交正常化提言」発表55周年の佳節を刻む。先生が誠実の対話で友誼を結び、築き上げた日中の「金の橋」――その輝きが変わることはない。

◆年表◆
1974年
〈1月19日〉
九州指導(~25日。福岡、鹿児島)
第171回本部幹部会(22日、福岡)
公害で苦しみながら戦い抜いた友と記念撮影(初の「水俣友の集い」。24日、鹿児島)

〈1月26日〉
香港訪問(~31日)
香港広布13周年記念撮影会(27日)
香港大学(29日)、香港中文大学(30日)を訪問
東南アジア仏教者文化会議第1回代表者会議(30日)

〈2月2日〉
沖縄指導(~10日)
八重山祭り。西表島の竹富町立大原中学校への図書贈呈式、創価学会の第1回の図書贈呈となる(3日、石垣島)
宮古伝統文化祭(5日、宮古島)
沖縄広布20周年記念総会(8日)

〈2月15日〉
千葉指導(~16日)。千葉県大会(16日)

〈3月7日〉
北・中南米訪問(~4月13日。アメリカ、パナマ、ペルー)
アメリカのカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で「21世紀への提言――ヒューマニティーの世紀に」と題し記念講演(4月1日)
※当初、ブラジルを訪問する予定であったが、ビザが発給されないため、予定を変更し、パナマ初訪問となる(3月18日)

〈4月18日〉
創価大学の第4回入学式。「創造的生命の開花を」と題し講演

〈4月19日〉
フランスの美術史家ルネ・ユイグ氏と会談(東京)

〈4月25日〉
信越・北陸指導(~29日。長野、石川)
長野県伝統文化祭ならびに長野県総会(26日)。
北陸伝統文化祭ならびに北陸広布20周年記念総会(28日、石川)

〈5月18日〉
フランスの作家、元文化相のアンドレ・マルロー氏と会談(東京)。後に対談集『人間革命と人間の条件』を発刊

〈5月19日〉
山口県総会にメッセージを贈る

〈5月30日〉
中国訪問(第1次。~6月16日)
香港から列車に乗り、羅湖駅から徒歩で中国への境界線を渡る(5月30日)
中国仏教協会の趙樸初副会長(後に会長)と会談(6月4日)
周恩来総理が病気療養中のため、李先念副総理と会見(6日)
北京、西安、上海などを訪問。各地で歓迎を受け、市民とも交流

〈8月22日〉
創価大学の第2回夏季大学講座。「人生と学問」と題し講演

〈9月8日〉
ソ連訪問(第1次。~18日)
モスクワ大学のレム・ホフロフ総長と懇談(11日)
レニングラード(現・サンクトペテルブルク)のピスカリョフ墓地で献花し戦没者を追悼(13日)
モスクワ大学と創価大学との教育交流に関する議定書の調印式
ノーベル賞作家のミハイル・ショーロホフ氏と対談(16日)
アレクセイ・コスイギン首相とクレムリンで会見(17日)

〈9月24日〉
東北指導(~28日。宮城、山形)
第179回本部幹部会で、創価学会は“常に中道を進む”“広宣流布の団体であり、大仏法を基調とした平和と文化の推進の団体である”等、広宣流布への指針を示す(27日、宮城)

〈9月28日〉
北海道指導(~29日)

〈10月6日〉
中部指導(~8日。三重、愛知)
第1回三重県総会(6日)

〈10月13日〉
山梨広布20周年記念総会

〈11月10日〉
香川県総会にメッセージを贈る

〈12月2日〉
中国訪問(第2次。~6日)
鄧小平副総理と会談(5日午前)。周恩来総理と会見(5日夜)