1968年(昭和43年)「栄光の年」 22年09月23日 |
「4・8」創価学園入学式![]() 創価学園の第1回入学式の後、池田先生は「青年と鷲」の像の除幕式で、学園生に“理想に向かって飛翔を!”と呼びかけた(1968年4月8日、東京・小平市で) 創価教育を実践する学校の創立――それは、牧口先生、戸田先生の悲願であった。池田先生は、その実現に向けて尽力し、1968年(昭和43年)4月8日、創価学園(中学・高校)の待望の入学式が行われた。 先生が学校設立のため、東京・小平市の建設候補地を視察したのは、60年(同35年)の4月、第3代会長に就任する1カ月前だった。65年(同40年)11月には、準備のための委員会が発足した。 68年4月、先生は開校に先立ち、創立者として、開校の目的を発表した。「創価学園は創価学会のために設立したのではない」「創価学園は、あくまでも、日本の未来を担い、世界の文化に貢献する、有為の人材を輩出することを理想とする」 さらに、「進取の気性に富み、栄光ある日本の指導者、世界の指導者に育て」等、五つの指針を贈る。後の校訓として、鳳雛たちに刻まれることになる。 4月8日の入学式当日、先生は“学校運営は、校長や理事長が中心”との思いから、式典終了後に学園を訪問した。 そして、「みんなであの橋を渡ろう」と、生徒らと共に、玉川上水に架かる栄光橋へ。栄光寮にも足を運び、親元を離れ、向学心を燃やす寮生たちに万感の励ましを送った。 同年9月には、学園の寮歌(現・校歌)に、5番の歌詞を贈った。「未来に羽ばたけ 君と僕」――その一節一節に、創立者の父子の願いが込められていた。 本年、東京校は第55期生、関西校は第50期生を新入生として迎えた。入学式のメッセージで先生は、強く呼びかけた。 「今、皆さんを取り巻く時代の闇は深い」「わが学園生よ、希望の太陽と光れ! 勇気の明星と輝け! 英知の大星雲となって、地球の未来を照らしゆけ!」 「9・8」日中国交正常化提言 ![]() 「日中国交正常化提言」が発表された、第11回学生部総会(1968年9月8日、東京・日大講堂で) 今月は、「日中国交正常化」から50周年の節目である。 1968年(昭和43年)9月8日の第11回学生部総会。池田先生は、その講演に向けて、原稿作成に取り組んでいた。歴史的な「日中国交正常化提言」の原稿である。 当時、中国は7億を超す人口を抱えながら、文化大革命が先鋭化する時期でもあり、国際的に孤立していた。先生は、アジアと世界の安定のため、歴史的にも地理的にも深い関係にある、日本と中国の国交正常化の必要性を痛感していた。 提言の発表は、身の危険も伴っていた。しかし、先生は、深い覚悟を固める。 “私が、発言するしかない! 私は仏法者だ。人びとの幸福と世界の平和の実現は、仏法者の社会的使命である” 先生の眼には、アジアの民衆の救済を叫び続けた恩師の姿が浮かんでいた。 日大講堂で開催された学生部総会の冒頭、先生は、9月8日が、戸田先生の「原水爆禁止宣言」が発表された日であることを通し、創価の平和の魂を確認。そして、日中の国交正常化、中国の国連における正当な地位の回復、経済的・文化的な交流の推進などを提案した。 同提言は大きな反響を呼び、中国側にも伝わった。4年後の72年(同47年)、日中国交正常化は現実のものとなる。 その後も、池田先生は、周恩来総理ら、中国の要人と対話を重ねた。さらに、民間交流を促進し、信頼と友情の“金の橋”を築いていったのである。 先生は、日中友好への思いをつづっている。「尊き先人が切り開いた『金剛の道』『金の橋』を、さらに強く、固く、広く、長く構築していく努力をしていかなくてはならない」「その軸となる根本は、『信義』の二字である」 「10、11月」各方面で芸術祭 ![]() “見事な芸術祭でした!”――九州芸術祭で出演者をたたえる池田先生(1968年11月10日、福岡・小倉市民会館〈当時〉で) 芸術部主催による初の芸術祭が行われたのは、同部結成の翌年、1963年(昭和38年)だった。人間文化の創造の息吹にあふれた舞踊や演奏などが披露された。そして68年(同43年)秋、池田先生の提案により、中部、四国、九州、そして関西、東京の5方面で、芸術祭を開催することが決まった。 先生は、芸術祭の企画に悩む友に語った――。「私たちの芸術祭には、こうしなければならないという形式があるわけでもなければ、イデオロギーの宣伝でもありません」「信心をもった自分自身の生きる喜びを、そのまま表現していけばいいんです」 芸術祭は、「郷土」に光が当てられ、民謡や地域の踊りなどが祭典を彩った。中部芸術祭(10月14日)では、徳川家康の少年時代を題材にした舞踊劇が演じられた。同月の四国芸術祭は、坂本龍馬の青春時代が取り上げられ、11月10日の九州芸術祭では、郷土芸能の小倉祇園太鼓が披露された。 先生は11月に開催された関西、東京での芸術祭も含め、全5会場に出席し、真心の喝采を送った。掉尾を飾った東京芸術祭のフィナーレは、先生が青年に贈った詩「元初の太陽を浴びて」に曲をつけた歌の大合唱だった。 〽わが愛する 若人たち 諸君の背に かがやくのは 光彩陸離たる 栄光 とどろく その跫音は 世紀への警鐘と 救済の乱打だ…… 青年のパワーが時代を動かす原動力となる。この下半期、青年世代を主役とする「SOKAユースフェスタ」が開催される。創価の文化と友情の光彩が、地域・社会を照らしていくに違いない。 ◆年表◆ 1968年 〈1月1日〉 聖教新聞に詩「栄光への門出に」を発表 〈1月29日〉 創価学園(中学校・高等学校)の落成式(東京) 〈3月18日〉 九州指導(~20日。福岡、長崎) 長崎会館を訪問。被爆地の平和祈念像を訪れ、恒久平和を祈る(20日) 〈4月4日〉 創価学園の開校に先立ち、「真理を求め、価値を創造する、英知と情熱の人たれ」等の5項目の指針(後の校訓)を贈る 〈4月5日〉 山梨本部落成入仏式(山梨) 〈4月8日〉 創価学園の第1回入学式式典後に学園を訪れ、「英知・栄光・情熱」のモットーの碑の除幕、記念撮影を行う 〈4月9日〉 最初の大学会となる東京大学会の結成式(東京) 〈5月3日〉 第31回本部総会。核保有国の首脳が一堂に会し核兵器廃棄の話し合いを行うよう訴える(東京) 〈5月18日〉 九州指導(~20日。福岡、熊本、大分) 〈5月22日〉 女子大学会の結成式(東京) 〈8月8日〉 第1回高等部総会。「未来に羽ばたく使命を自覚するとき、才能の芽は、急速に伸びることができる」と激励(静岡) 〈8月29日〉 学生部の海外委員会のメンバーらと懇談(東京) 〈8月31日〉 婦人部幹部会。席上、婦人部の愛唱歌「今日も元気で」が発表される(東京) 〈9月2日〉 創価学園の学園寮歌「草木は萌ゆる」(現・校歌)に5番の歌詞「富士が見えるぞ 武蔵野の/渓流清き 鳳雛の/平和をめざすは 何のため/輝く友の 道拓く/未来に羽ばたけ 君と僕」を加筆 〈9月8日〉 第11回学生部総会で日中国交正常化を提言(東京)。 ①中国の存在を正式に承認し、国交を正常化する ②国連における中国の正当な地位を回復する ③経済的・文化的な交流を推進する、等を提案 日本やアメリカが中国を敵視するなかでの大胆な発言に、日中友好を願う人々に反響が広がり、創価学会の民衆運動に着目していた周恩来総理も高く評価。提言の内容に沿うように4年後に国交正常化が実現する 〈9月13日〉 北海道指導(~17日) 日本最北端の市・稚内を訪問し、「日本最初の広宣流布を成し遂げてもらいたい」と語る(14日) 〈10月14日〉 第1回中部芸術祭(愛知)。以後、四国(10月15日)、九州(11月10日)、関西(11月14日)、東京(11月26日)の芸術祭に出席 〈11月10日〉 九州・関西指導(~15日。福岡、熊本、鹿児島、大阪) 奄美大島で「日本の広宣流布の理想郷に」と呼び掛ける(13日) 〈11月17日〉 高等部の定時制鳳雛会第1期生と懇談(東京) |