昭和38年「教学の年」
22年04月13日
「6・21」奄美大島の初訪問

奄美総支部の結成大会であいさつする池田先生(1963年6月22日、鹿児島・奄美大島で)

1963年(昭和38年)6月20日、池田先生は5日間にわたる九州指導へ。21日、鹿児島県の奄美大島を初訪問した。
先生は会長就任以来、離島の友を激励して回りたいと念願していた。奄美大島を含めた奄美群島は、53年(同28年)12月にアメリカから日本に返還され、その後、仏法の種子が蒔かれた。
弘教の波が広がる中で、奄美の友は、学会に対する中傷を受け、村八分に遭うこともあった。しかし、悔し涙をこらえ、愛する島を走り抜いた。先生が来島する頃には、会員世帯は6000世帯を大きく上回っていた。
“広布のために苦労に苦労を重ねてきた同志を最高にたたえよう”――交通手段が発達していない当時、先生は小さなプロペラ機で徳之島に入り、そこから奄美大島まで船で渡った。
先生は到着するやいなや、総支部結成の手を打った。22日の午前、奄美大島会館の落成式が行われ、午後には、3支部(奄美大島支部、名瀬支部、古仁屋支部)から成る奄美総支部の結成大会が開催されたのである。
大会の席上、先生は、「自分を幸福にするのは、他人ではありません。科学でも、また、政治でもありません。自己自身の一念であり、自らの生命を開きゆく尊き信心にあります」と指導。時代の先端を行く“信心の勇者”として、最高の幸福境涯を開いていくことを念願した。
この日の夜、奄美の友に贈るため、戸田先生の和歌を次々としたためた。
「辛くとも 嘆くな友よ 明日の日に 広宣流布の 楽土をぞ見ん」
奄美の同志にとって、“師弟の誓い”こそが、地域を楽土へと転じる大きな原動力となった。魂の原点である6月22日は「奄美の日」として輝く。

「9・1」学会本部が落成

1963年9月1日に落成した当時の学会本部(東京・信濃町で)

戦後、学会の再建に着手した戸田先生は、出版事業の事務所として、東京・西神田にあった3階建ての建物を購入。この2階に学会本部が置かれた。1951年(昭和26年)の男女青年部結成式など、草創の多くの原点が刻まれた。
戸田先生が第2代会長に就いた2年後の53年(同28年)11月、学会本部は信濃町に移転。第3代会長に就任した池田先生もここで指揮を執った。
63年(同38年)9月1日、新たな学会本部が信濃町に落成した。恩師の遺言であった300万世帯を達成した翌年のことである。池田先生は落成式で述べた。
「本部は、広宣流布の法城です。民衆救済に戦う勇者の城です」「不幸な人びとの味方となり、皆が、私こそ広布の責任者であるとの自覚で、堂々と指揮を執っていただきたい」
先生は、この本陣から、世界を舞台に“民衆救済のドラマ”をつづり残した。後に、9月1日は、学会本部落成の意義と「学会厳護」の誓いを込め、男子部人材グループ「牙城会の日」に制定された。
21世紀に入り、創価の連帯は192カ国・地域にまで拡大した。
世界広布新時代を迎え、先生は「生まれ変わったような、世界一の『創価城』『広宣城』をつくっていく。海外から来られた方々も、悠々と、ゆっくりできるような『本陣』を、一段と整備していく」と。2013年(平成25年)11月には、広宣流布大誓堂が完成した。
西神田、信濃町の学会本部で、創価の師匠が「慈折広宣流布大願成就」を祈り抜いた「学会常住御本尊」は、同大誓堂に安置されている。
今や学会の総本部は、民族や言語を超えて、世界中の同志が共に師弟の誓願をとどめる“師弟の大法城”となっている。

「10・18」民主音楽協会を創立

民音による、オペラの殿堂「ミラノ・スカラ座」の初来日公演(1981年9月、東京・渋谷区内で)

1963年(昭和38年)10月18日、民主音楽協会(民音)の創立記念演奏会が開催された。先生は出席できなかったが、この日、民音の首脳たちに述べた。
「私は、『世界の民音』に育てたいと思っている。『民音があって、音楽は蘇った』『民音があって、新しい、最高の音楽が生まれた』『民音があって、民衆の心と心が結ばれ、世界が結ばれた』と言われるようになるんだ」
先生は、61年(同36年)1月、アジア初訪問の旅へ。長兄が戦死したビルマ(現・ミャンマー)で平和を祈念した翌日、タイで音楽・芸術などの幅広い交流を目的とした団体の設立構想を語った。
人類が戦争と決別して平和を築くためには、民衆の相互理解を促進する芸術、文化交流しかない――それが、先生の確信であった。
名称を検討する段階では、「民衆音楽協会」との意見もあった。だが、“民衆こそが国家、社会の主人であり、音楽、芸術を育成する主役”と、「民主音楽協会」と提案したのは、先生である。
創立の折、民音のスローガンが発表された。その中にあるのが、「日本の音楽家を育成し、その優秀な作品、並びに演奏を、広く内外に紹介する」である。
民音は「東京国際音楽コンクール〈指揮〉」の主催を手掛け、同コンクールは、世界の若手指揮者の登竜門になった。
さらに、「学校コンサート」といった文化事業や、世界各地での文化交流を展開。民音の文化交流は112カ国・地域にまで広がっている。先生自ら、公演の出演者や関係者に激励も重ねてきた。
ある民音公演の後、先生は「文化」に寄せる万感の思いを記した――「文化は世界の永遠の虹/文化は人間の幸福の大地/文化は平和の絢爛たる大花」

◆年表◆
1963年
〈1月8日〉
アメリカ・欧州・中東・アジア訪問(~27日。アメリカ、フランス、スイス、イタリア、レバノン、タイ、香港)
アメリカでハワイ(8日)、ニューヨーク(13日)に支部を結成
フランスでヨーロッパ総支部、パリ支部を結成(16日)
香港の支部大会で香港を幸福の花園に変えゆくよう望む(26日)
香港から帰国する際、飛行機便が台北経由に変更となり、台湾の同志と予期せぬ対面。“冬は必ず春となる”と励ます(27日)
世界を一周する激励行となった

〈3月16日〉
青年部主催の初の弁論大会(東京)

〈4月5日〉
関西指導(~7日。京都、大阪、和歌山)

〈5月3日〉
第25回本部総会(東京)

〈6月3日〉
東京第1本部幹部会(東京)

〈6月20日〉
九州指導(~24日。鹿児島、宮崎)
徳之島から船で奄美大島を初訪問(21日)
奄美大島会館落成入仏式(22日)

〈7月28日〉
第1回言論部全国大会(東京)

〈7月30日〉
中部第2本部幹部会(長野)

〈9月1日〉
新学会本部落成式(東京・信濃町)

〈9月15日〉
京都大学に学ぶ学生部員に「百六箇抄」講義を開始(兵庫)

〈10月18日〉
民主音楽協会(民音)を創立
民衆のための新しい音楽運動の創造、音楽を通した国際交流の推進を掲げる
〈民音の海外との文化交流はこれまでに112カ国・地域に及ぶ〉

〈11月3日〉
関西・四国指導(~5日。兵庫、愛媛)
関西文化祭(3日、兵庫・甲子園球場)

〈11月22日〉
九州指導(~24日。鹿児島、福岡)

〈11月23日〉
ケネディ米大統領の不慮の死に対し、ホワイトハウスとアメリカのメンバーに弔電を打つ