昭和37年「勝利の年」
22年03月17日
「1・25」大阪事件の無罪判決

大阪事件の無罪判決の日、関西本部を出る池田先生(1962年1月25日)

1957年(昭和32年)7月3日、池田先生は、事実無根の選挙違反容疑で大阪府警に逮捕された。大阪事件である。背景には、民衆勢力として台頭する学会を陥れようとの、権力の謀略があった。
7月3日は、軍部政府の弾圧と戦い抜いて投獄された戸田先生が、45年(同20年)に出獄した日でもあった。
恩師は、大阪へと向かう愛弟子に言った。「お前が死ぬようなことになったら、私も、すぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」
池田先生は誓った――。“戸田先生の弟子らしく、私は、力の限り戦う”
17日に出獄した池田先生を待ち受けていたのは、4年半にわたる過酷な法廷闘争だった。58年(同33年)3月5日、池田先生は、裁判のために大阪に行くことを恩師に告げた。戸田先生は、衰弱する体を布団から起こし、毅然として言った。
「裁判は、容易ならざる戦いになるだろう」「しかし、最後は勝つ。金は金だ」「真実は必ず明らかになる。悠々と、堂々と、男らしく戦うんだ」
恩師の言葉通り、池田先生は84回の公判を経て、62年(同37年)1月25日、「大阪事件」の無罪判決を勝ち取る。それは、先生と共に戦い抜いた関西の同志の勝利であり、創価の勝利でもあった。
無罪判決の前夜、先生は兵庫で開催された関西の男子部幹部会に出席し、大阪事件のえん罪の構図と権力の魔性に言及。幹部会終了後、駆け寄ってきた青年たちに語った――一人一人が力をつけ成長することだ! 多くの友をつくり、正義の陣列を拡大することだ! そして広宣流布の戦いに勝って、世間をあっと言わせる時代を創ることだ!
この「戦い続ける心」こそ、「1・25」に刻まれた魂である。

「1・27」東洋学術研究所発足 「3・8」学芸部結成

2006年3月、ブルガリアのジュロヴァ博士と語らう池田先生(東京・創価大学で)。東洋哲学研究所から同博士との対談集が刊行されている

1962年(昭和37年)は、東西冷戦の真っただ中であった。前年、「ベルリンの壁」が築かれ、この年の10月には「キューバ危機」が勃発。米ソの衝突は寸前で回避されたものの、世界が核兵器の脅威に怯えていた。
池田先生は、世界を不戦へと導くため、“文化交流”の潮流を広げゆくことを深く心に期した。
61年(同36年)のアジア訪問の際に提案し、62年1月27日に発足したのが「東洋学術研究所」(現・東洋哲学研究所〈東哲〉)である。学会が設立する文化・教育機関の先駆けとして、東洋をはじめ世界の思想・哲学・文化を多角的に研究する機関が誕生した。
以来、東哲は法華経を中心に、世界の宗教や思想、文化の研究を推進。環境問題、平和、人権、生命倫理など、地球的問題群の解決への道を探究し続けてきた。世界の学術機関等と交流を重ね、文明間・宗教間の対話を進めるとともに、「法華経写本シリーズ」の発刊等を通して、仏教の原典研究の発展に寄与している。
同年3月8日には、学術・芸術の担い手である「学芸部」(後の学術部、芸術部)の結成式が行われた。先生は、学術部には「唱題による知恵を根本として知識を活用してほしい」と訴え、芸術部へは「信心を根本に自らの職業で伸び伸びと活躍を」と激励した。
池田先生は、文化の重要性を述べている。「文化は固有性とともに共感性をもち、民族、国家、イデオロギーの壁を超えて、人間と人間の心を結ぶ“磁石”の働きをもっている」
師匠の手によって“文化の華”の種子が蒔かれてから60星霜――。平和の礎となる文化と友情のさらなる大輪を咲かせゆくことは後継の私たちの使命である。

「8・31」御義口伝講義を開始

学生部の代表に対する池田先生の「御義口伝」講義(1962年8月31日、旧・聖教新聞本社で)

「混迷せる現代思想の革命は、この大思想による以外ないと確信する」――池田先生の『御義口伝講義』の「序」の一文である。
1962年(昭和37年)7月、先生と学生部との懇談の折、“ぜひ御書講義を”と学生部から要請があった。先生は「よし、やろう!」「一緒に勉強していこう」と快諾。8月31日、学生部の代表への「御義口伝」講義がスタートした。
当時の学生の間には、いわゆる“60年安保”闘争の挫折に伴う喪失感が漂っていた。そうした状況の中で、先生は日蓮仏法が社会建設の哲理であることを示したのである。
先生の講義は、御書の拝し方といった教学の基本姿勢から、仏法の生命観まで縦横無尽に展開した。「私が、みんなに厳しく指導するのは、仏法の因果の理法が厳しいからです」――。講義は、厳粛な中にも深い慈愛がこもっていた。
翌年9月からは、1年にわたって、関西で「百六箇抄」の講義を実施。64年(同39年)11月、京大生・関西以西の代表への「御義口伝」講義を開始するとともに、12月には中部で「諸法実相抄」の講義を行っている。師匠の渾身の講義は、創価後継の精鋭たちを鍛える人間教育の場となったのである。
先生は、受講生たちに語った。
「私は、戸田先生から、十年間、徹底して、広宣流布の原理を教わった。師匠は原理、弟子は応用だ。今度は、将来、君たちが私の成したことを土台にして、何十倍も、何百倍も展開し、広宣流布の大道を開いていってほしい」
「御義口伝」に「普賢菩薩の威神の力」(新1085・全780)と。仏法は、創価の普賢菩薩たる学生部の力で広まる――これが広布の方程式である。

◆年表◆
1962年
〈1月24日〉
関西指導(~25日。大阪、兵庫)

〈1月25日〉
大阪事件裁判の第84回公判で無罪判決(大阪地裁)
裁判は4年半に及ぶ
検察は控訴せず、無罪が確定

〈1月27日〉
東洋学術研究所(現・東洋哲学研究所)の発足式(東京)
東洋を中心に世界の文化、宗教、民族性を研究し、文明間の相互理解、人類の平和に寄与することを目指す

〈1月29日〉
中東・アジア訪問(~2月12日。イラン、イラク、トルコ、ギリシャ、エジプト、パキスタン、タイ、香港)
バンコク(2月11日)、香港(12日)の支部結成を発表

〈3月8日〉
学芸部(後の学術部、芸術部)結成式(東京)

〈3月16日〉
第2回青年部音楽祭(東京)

〈4月17日〉
青年部主催による初の柔剣道大会(東京)

〈5月3日〉
第24回本部総会(東京)
海外から130人を超えるメンバーが参加

〈5月8日〉
東北本部幹部会(宮城)

〈6月15日〉
北海道地区部長会

〈6月18日〉
長野指導(~19日)

〈6月20日〉
和歌山・九州指導(~24日。和歌山、大分、福岡)

〈7月17日〉
沖縄指導(~19日)

〈7月22日〉
第5回学生部総会(東京)

〈8月1日〉
第1回教育部全国大会(東京)
創価教育学の研究、教育体験を発表する雑誌出版を提案
翌9月に機関誌「灯台」が発刊される〈後に第三文明社から、教育雑誌として刊行〉

〈8月4日〉
富士吹奏楽団結成式(静岡)

〈8月31日〉
学生部の代表に「御義口伝」の講義を開始(東京)

〈9月13日〉
公明政治連盟第1回全国大会(東京)
“大衆と共に語り、大衆のために戦い、大衆のなかに死んでいく”政治家のあり方を語る。後の公明党の立党の精神となる

〈9月16日〉
九州指導(~17日。熊本、大分)

〈9月23日〉
青年部第4回全国体育大会「若人の祭典」(神奈川)

〈10月6日〉
青年部主催の第1回関西音楽祭(兵庫)

〈10月14日〉
青年部の第1回文化祭(東京。15日、神奈川)

〈11月3日〉
教学部助師・講師昇格試験の会場で受験者を激励(東京)

〈11月27日〉
第31回本部幹部会で300万世帯の達成を発表(東京)

〈12月2日〉
第10回女子部総会(東京)

〈12月9日〉
第11回男子部総会(東京)