第51回
エミール・ゾラとポール・セザンヌ
25年6月8日 
〈ゾラ〉
真実は前進し、何ものも止めることは
できない。真実には、あらゆる障害を
乗り越える力が内在している。
 

エミール・ゾラ(1840―1902年)

 世間の毀誉褒貶を見下ろし、正義と信念を貫くことは容易ではない。その厳しさを放棄しなかった者こそが歴史の審判を勝ち越え、後世に名声を残すことができる。
 
 19世紀フランスの作家エミール・ゾラと、画家ポール・セザンヌも、そのような人物に挙げられよう。共に南仏のエクス・アン・プロヴァンスで育ち、少年時代からの親友だった二人は、文学と美術という異なる道で真実を追求し、大いなる理想に生き抜いた。
 
 1840年4月にパリで生まれたゾラの人生は、順風満帆ではなかった。幼少期に南仏に移り住んで数年後、父が他界。一家は貧窮の底に落ちるも、母はゾラに教育の機会を失わせなかった。
 
 中学では、セザンヌと友情を育みつつ、学問で頭角を現す。だが生活は悪化の一途をたどり、失意の中でパリに戻ることになった。
 
 南仏にいる頃から詩人を夢見るようになったゾラ。その後、大学入学資格試験に2度失敗し、進学を断念するが、出版社で書籍の荷造りや発送などをこなしながら、文学者の道を志していく。
 
 チャンスは思わぬ形で訪れた。雑用の仕事を通して書籍市場に精通したゾラは、提案した斬新な企画が社長に高く評価され、宣伝主任に登用される。そこで多くの文筆家と知り合い、彼らの紹介で執筆の機会を得ることに。やがて作家として生きる決意を固めた。
 
 代表作は、77年発刊の小説『居酒屋』。さらに『ナナ』などの作品が反響を呼び、ついには“19世紀最大のベストセラー作家”と称されるまでになった。

ゾラやセザンヌはじめ、多くの偉人が足跡を刻んだ花の都パリ。シャンゼリゼ通りから凱旋門を望む(昨年5月)。我らもいざ、栄光の凱旋門へ!

 ゾラは晩年、祖国の軍が起こした有名なえん罪事件である「ドレフュス事件」と対峙する。
 
 94年、ユダヤ人の軍人ドレフュスが事実無根のスパイ容疑をかけられ、遠島に流刑となった。背景には反ユダヤという、深い偏見が横たわっていた。
 
 ゾラはつづっている。
 「真実は前進し、何ものも止めることはできはしない。悪意の妨害がもろもろあったにしても、厳密に決められたとおりの歩調で、一歩一歩前進していく。真実には、あらゆる障害を乗り越える力が内在している」
 
 ドレフュスの無実を証明するため、ゾラは敢然と立ち上がった。98年、「オーロール(夜明け)」紙に「われ弾劾す」と題する大統領への公開状を発表。新聞は爆発的に売れ、フランス全土に衝撃を与えた。
 
 当時、ゾラの年齢は57歳。作家として絶頂期にありながらも正義を叫ぶことを選んだ彼は、名誉毀損で起訴され、有罪判決を受ける。一時はイギリスに亡命し、信念の言論闘争を貫いた。
 
 ゾラの勇気は世論を動かし、翌1899年にドレフュスの再審が決定。1906年に無罪が確定する。
 
 勝利の瞬間、ゾラはこの世を去っていた。しかし、人生の最終章まで執り続けた正義のペンは、無実の人を救う力となった。

〈セザンヌ〉
目的に到達するには勇気が必要です。
私が成しとげねばならない進歩には
限りがありません。
 

ポール・セザンヌ(1839―1906年)

 一方、セザンヌは1839年1月、エクス・アン・プロヴァンスで生まれた。画家になるのが夢で、中学時代からデッサンの学校に通い、絵への情熱を高めた。
 
 ゾラに誘われ、パリでの生活も経験。後に印象派で名をはせていくマネやモネ、ルノワールらと美術論を交わし、芸術を探究した。
 
 銀行家だった父の反対を乗り越えて画家の道に進むが、不遇の時代が長く続いた。出品した展覧会では、ことごとく落選。酷評を浴びせられた。
 
 人々は、セザンヌの作品を見るや否や、笑いを浮かべ、皮肉を口にしたという。“セザンヌは怪物だ”“常識外れだ”と。極め付きには「紙と絵具をもって遊んでいる子供の方がもっとよく描く」とまで嘲笑される始末だった。
 
 セザンヌは心に深い傷を負う。認められることのないまま、再び故郷に戻り、孤独の中で、かたくななまでに自己の芸術の精進を続けていった。
 
 そこで題材としたのが「サント・ヴィクトワール(聖なる勝利)山」である。

「ル・トロネ街道の上から見たサント・ヴィクトワール山」 ポール・セザンヌ 1896―98年 78×99センチ エルミタージュ美術館所蔵

 標高およそ1000メートルの高さに一連の頂がほぼ真っすぐに並び、見る角度によって表情を変える。従来の絵画の常識を覆す先駆的な技巧によって、セザンヌが生み出した“勝利山”の傑作は80点を超えた。
 
 彼は語っている。「あのサント・ヴィクトワール山を見たまえ。何という飛躍だ! 何という太陽の激しい渇望だ!」と。
 
 どんなに試練の烈風が吹き荒れようとも、自らの“理想の山”に挑み続けたセザンヌ。友人に宛てた手紙には、こんな言葉を記している。
 
 「目的に到達するためには勇気が必要なのです」
 「私が成しとげねばならない進歩には限りがありません」
 
 彼が評価されるようになったのは、死後のことである。ピカソやマティスといった次代の巨匠たちが、セザンヌの作品を愛好して崇拝し、そこから新しい芸術世界をつくり上げようとした。
 
 「わしは、画をかきながら、死のう」――67年の生涯を通じて、後世の画家たちに多大な影響を与えたセザンヌは今日、「近代絵画の父」として仰がれている。
〈セザンヌを通してつづる池田先生〉
特別な天才だけの話ではない。
だれにとっても、自分自身の
《サント・ヴィクトワール山》がある。
自分の人生の《勝利山》がある。
その山を見よ。登りきれ!

トレッツの欧州研修道場でメンバーを激励する池田先生ご夫妻(1981年6月6日)。牧口常三郎先生の生誕日でもあるこの日は「欧州師弟の日」に定められ、不滅の原点と輝く

 池田大作先生が「サント・ヴィクトワール山」を初めて目にしたのは1981年6月。南仏トレッツの欧州研修道場を初訪問した時だった。その感動を、先生は各国の友に語っている。
 
 「見てごらんなさい! すごい山です。巨大な人物が――たとえば釈尊が安らいで横になっているようにも見える。厳然としていながら、優雅さと気品がある。この姿は、信心の『一念』のようだ。
 
 何ものにも屈しない。何ものをも、はね返す。強い。激しい。それでいて、何ものをも包み込む底しれないエネルギーを感じる。深固幽遠です。この山のように強い強い人間に、みなさんもなってください」
 
 そして、この地を訪れるたび、ゾラとセザンヌが見つめた“勝利山”を眺め、カメラに収めてきた。
 
 「ドレフュス事件」で、容疑者を弁護して戦ったゾラ。先生は当時の彼の叫びを紹介し、“勝利の方程式”を示している。
 
 「『私の味方として残っているのは、もっぱら思想であり、真実と正義の理想である。今、私はきわめて穏やかな心境にある。私は勝つであろう』
 
 われらの広宣流布もまた、壮大なる思想戦である。学会の中にこそ、人類の宿命転換をも可能にする偉大な思想がある。究極の真実と正義の理想がある。最強の味方がついているのだ。
 
 ゆえに、断じて負けることはない。断じて勝っていける。
 
 この崇高なる使命の学会から離れて、本当の幸福はない。真実の栄光もない。それは、惨めな退転者の末路を見れば明らかである。
 
 妙法とともに!
 学会とともに!
 同志とともに!
 
 ここにこそ、人生の最極の栄冠が光る。これが私たちの大確信である」(2006年4月25日、「5・3」記念代表者会議でのスピーチ)

若き日のゾラとセザンヌが見つめ、共に登った「サント・ヴィクトワール山」。晩年のセザンヌは、その姿を題材として描き続けた

 さらに先生は、「地球紀行 我がふるさとは世界」でセザンヌの不屈の歩みをつづっている。
 
 「セザンヌは、勝利山に向かって歩き続けていた。描き続けた人生だった。描いても描いても、認められなかった。(中略)
 どんな素晴らしいものであっても、それが『新しい』というだけで、拒絶されるものなのだ! たいていの人間は、みなが『いい』と言うものを、口まねして『いい』と言っているだけなのだ!」
 
 同エッセーはこう続く。
 「それでも彼は、自分自身の芸術という山を、あえぎあえぎ登り続けた。ばかにされようが、それが何だ! 最後は、本物が勝つ!(中略)
 彼は巌だった。彼は、彼自身を『勝利の山』に鍛え上げたのだ。
 
 特別な天才だけの話ではない。だれにとっても、自分自身の《サント・ヴィクトワール山》がある。自分の人生の《勝利山》がある。その山を見よ。登りきれ!」(04年7月3日付)
 
 人生も広布も、挑むべき山があり、越えるべき山がある。本陣・大東京を先頭に、創価家族が新たな「師弟凱歌の山」を登りきる時は今である。


【引用・参考】稲葉三千男著『ドレフュス事件とエミール・ゾラ 告発』(創風社)、尾﨑和郎著『ゾラ』(清水書院)、ジョン・リウォルド編『セザンヌの手紙』池上忠治訳(筑摩書房)、ミシェル・オーグ著『セザンヌ――孤高の先駆者』村上尚子訳(創元社)、ジョアキム・ギャスケ著『セザンヌとの対話』成田重郎訳(東出版)、エミール・ゾラ著『時代を読む 1870―1900』小倉孝誠・菅野賢治編訳(藤原書店)、アンリ・ペリュショ著『セザンヌ』矢内原伊作訳(みすず書房)、工藤弘二著『図説 セザンヌ「サント=ヴィクトワール山」の世界』(創元社)ほか