第44回 近代五輪の先駆者 24年7月21日 |
今月26日から(現地時間)、この地で100年ぶり3度目の五輪が行われる 〈ピエール・ド・クーベルタン〉 来たるべき未来をつくり出し、 過去と未来の調和を図ることは、 青年たちの手にかかっている。 世界が注目する「平和とスポーツの祭典」が、間もなくフランスの首都パリで開幕する。 陸上男子1万メートルには、愛知県生まれで関西創価高校、創価大学出身の葛西潤選手(旭化成)の出場が決定。 東西の学園、創大の卒業生の夏季五輪代表入りは、1992年のバルセロナ大会の野球で銅メダル獲得に貢献した佐藤康弘さん(東京校・創大卒、現・創大硬式野球部監督)以来2人目だ。 スタートは日本時間8月3日午前4時20分。日本長距離界に現れた新星の力走に期待が高まる。 オリンピックの歴史は、2800年前にさかのぼる。 古代ギリシャのオリンピアで行われた競技祭が起源とされ、開催の前後は、都市国家間の全ての戦争を中断するという伝統があった。 この理想を受け継ぎ、「全世界の青少年のため、“人類の春”のために」との信念で近代五輪を提唱したのが、フランスの教育者ピエール・ド・クーベルタンである。 「来たるべき未来をつくり出し、過去と未来の調和を図ることは、かれら青年たちの手にかかっている」との言葉を残したクーベルタン。 1863年、パリの貴族の家に生まれた彼は、少年期の普仏戦争などを経て平和への思いを心に刻む。 一度は士官学校に進むが、“教育改革に尽くしたい”と17歳で進路の変更を決断する。 20歳になるとイギリスに渡り、パブリックスクールのスポーツ教育を視察。 戦争に敗れた祖国を救うには、スポーツを通じて青少年の士気を高める以外にないと実感する。 さらに各地の競技会を調べる中、国を超えて人類が一つになれる国際大会の実施を目指すように。その理想こそ古代五輪だった。 初めて公の場で五輪の構想を明かしたのは29歳の時。92年11月、自身が会長を務めるフランス・スポーツ競技者連合の式典の席上だった。 当初は誰からも理解されず落胆したが、そこから彼の本格的な戦いが始まった。 2年後に五輪復興のための会議をパリで開くことを決め、各国の有力者と対話を重ねた。 戦争の因縁がある国にも参加を呼びかけた。 そうした努力が実を結び、94年6月の会議には、20カ国の代表が出席。近代五輪の開催と、第1回大会を翌々年にギリシャのアテネで行うことが、満場一致で可決されたのである。 〈ピエール・ド・クーベルタン〉 人生で最も重要なのは、戦うことである。 本質的には“勝ったこと”ではなくて、 けなげに戦ったことである。 1896年4月6日、記念すべき第1回大会がギリシャのアテネで幕を開けた。 クーベルタンが夢見たオリンピックは、15世紀の空白を経て、“古代五輪発祥の国”で鮮やかに復活したのである。 14カ国241人の選手が参加したとされる大会は、10日間で40を超える種目が実施された。花形である陸上はアメリカが圧勝。 地元ギリシャも他の競技では奮闘したが、陸上の結果は振るわず、国民は最終日に予定されているマラソンに最後の望みを託した。 当時のギリシャは政治的・経済的問題に直面し、暗い時代にあった。人々は社会の暗雲を吹き飛ばす活躍を期待し、競技を見つめていた。 マラソンのコースはギリシャの故事にちなみ、マラトンの村からアテネの競技場までの約40キロ。沿道はギリシャ選手の勝利を願う人垣の熱気に包まれた。 だが後半に入っても、前を走るのは他国の選手ばかり。観衆の間に諦めムードが漂う中、残り7キロでレースが動く。ギリシャの選手が先頭に躍り出たのだ。 彼の名はスピリドン・ルイス。無名の羊飼いの若者だった。牧場で着る素朴な服装のまま出場し、2時間58分50秒のタイムで優勝。一躍、国民的英雄となった。 かつて池田先生は、この史実を通して語っている。 アテネの競技場で行われた近代五輪の第1回大会(1896年4月) 〈1991年8月4日の「’91県・区夏季研修」「第2回長野県総会」でのスピーチから〉 彼はあきらめなかった。走りぬいた。戦いぬいた。「断じて負けない」との、青年の魂が、五体に眠れるパワーを限りなく奮い起こしたのである。 「他の“だれか”ではない。おれが勝ってみせる」――この一念である。この闘争精神である。 名もない羊飼いの青年は、走りに走った。前へ、前へ――。 各国の名高いランナーを次々に追いぬいていく。前へ、前へ――。 ただひたすら、アテネの競技場へと突進していく。 彼はただゴールだけを見つめていた。他人の思惑など眼中になかった。 胸中には、言いわけも、保身も、逃避も、恐れもなかった。ただ走る。ただ勝利を――。 競技場に彼の姿が現れるや、7万人もの大観衆が、全員、総立ちとなって迎えた。喝采また喝采――。 ギリシャの皇太子も感極まって貴賓席から駆けおり、最後の200メートルを並んで走りだした。 立場を超えた「人間」同士の感動的な光景である。 そして、天まで届くほどの大歓声、万雷の大拍手のなか、青年は堂々とゴールイン。 それまでのすべての屈辱がいっぺんに吹き払われ、ギリシャの偉大なる栄光が、見事に蘇った一瞬であった。 近代オリンピックの創設者クーベルタンも、この光景を「すばらしい劇」と最大の感動をもって見守っていた。 そして、この勝利から「スポーツの世界では精神の力が、一般に理解されている以上に大きな役割を果たすものであることを確信した」とつづっている。 運動能力だけでもない。技術のみでもない。彼は「精神の力」で勝利を手中にした――。 広布の、そして人生のレースも同様である。学歴でもなければ、地位でもない。信心の力こそ根本である。能力でもない、策でもない。 偉大なる精神の力こそ、わが人生と広布に「勝利の栄冠」をもたらす。 一人の青年の勝利は、ギリシャの民衆に計り知れない自信と勇気を贈った。 その後、永らくギリシャの士気を鼓舞し続けたといわれる。 また、マラソンが「オリンピックの華」とうたわれるようになったのも、この感動のドラマがあったればこそである。 すべては、一人の青年の戦いで決まる。一人の庶民の勝利が一切を変えていく。 社会の中で、生活の中で、現実の中で、何があってもはつらつと、たくましく、トップランナーとして走りぬいていく。 そこにこそ、わが学会の、新しい勝利が生まれる。 栄光と希望が生まれる。凱旋の万歳が響きわたる。 (『池田大作全集』第78巻所収) およそ130年前、近代五輪の第1回大会が開催されたギリシャの首都アテネ。池田先生は1962年2月、この地に第一歩をしるした 〈五輪を通して語る池田先生〉 人生のオリンピックに敗者はいない。 いるとすれば、それは 「挑戦しなかった」人だけである。 「100パーセント、力を出し切った」人は 全員が〈人生の金メダリスト〉なのだ。 クーベルタンとルイスという先駆者が創り上げた近代五輪。 第2回大会(1900年)はクーベルタンの努力と苦労に敬意を表し、パリで行われた。 幾度か失敗の憂き目に遭いながら、その後も彼は希望を捨てることなく五輪の発展に尽力。 2度目のパリ大会(24年)を終えるまで、国際オリンピック委員会(IOC)の会長を30年近く務めた。 クーベルタンは言う。 「人生で最も重要なことは、勝つことでなくて戦うことである。本質的には“勝ったこと”ではなくて、けなげに戦ったことである」 そして、この精神に通じる池田先生の言葉には、創価の友の闘魂を鼓舞してやまない力がある。 「競技には勝者と敗者がいるが、人生のオリンピックに敗者はいない。いるとすれば、それは『挑戦しなかった』人だけである。 挑戦し、挑戦し、『100パーセント、力を出し切った』人は、そう、全員が〈人生の金メダリスト〉なのである」(2004年8月14日付本紙「人生は素晴らしい」) |