第38回 ミケランジェロ 24年01月21日 |
約束は、どんなことがあってもやりとげる。 かつてなかったような立派な仕事を私はしてみせる。 イタリアのフィレンツェ市は20日午前10時半(現地時間)から、同市の名誉市民である池田大作先生の追悼式を行った。 会場はヴェッキオ宮殿の五百人広間。ルネサンス芸術の至宝の数々が飾られている。 その中には、池田先生が「永遠なる生命の凱歌の象徴」とたたえる「勝利」の像がある。 作者はミケランジェロ・ブオナローティ。レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロ・サンツィオと並ぶルネサンスの「三巨匠」の一人である。 彫刻家としてだけでなく、絵画や建築、詩作に至るまで超人的な創作活動に身を投じ、多くの歴史的傑作を残した。その天賦の才を、人は「神のごとき」と形容する。 来月で没後460年となるミケランジェロの生涯は、理想の芸術を追い求め、孤独や迫害と戦い抜いた波乱の連続だった。 1475年3月、イタリア中部のカプレーゼでミケランジェロは誕生した。 生まれて間もなく里子に出され、実の母とは6歳の時に死別。乳母の家業が石工であったことから、石やノミに囲まれた環境で幼少期を過ごした。 13歳の頃、フィレンツェの著名な画家に師事。 その後、メディチ家の創設した彫刻学校に入り、古代ギリシャやローマの美術などに触れつつ、一流の知識人に交じって教養を身に付けていく。 94年、フランス軍がイタリアに侵攻すると、ベネチア、ボローニャへと逃れた。 その逃避行の中で先人たちの作品から多くを学び、時代に翻弄されながらも、飽くなき探究心で才能を磨き続けた。 21歳でローマに進出。最初の大作となった聖母子像「ピエタ」(サン・ピエトロ大聖堂)が“奇跡”と評され、脚光を浴びる。 5年後にはフィレンツェ政府の依頼を受け、「ダビデ」像の制作に着手。巨大な大理石の塊から2年半かけて、高さ4メートルを超える青年の姿を彫り出した。 宿敵の巨人ゴリアテを倒した気高き英雄の像は、大国に屈しないフィレンツェの象徴として宮殿の入り口に置かれ、人々の心を鼓舞したという。 20代で彫刻家としての名声を得たミケランジェロ。 「わたしの信じるかぎりでは、始めが悪いことほどうまくゆくものだ」 「約束したことは、どんなことがあってもやりとげる」「かつてなかったような立派な仕事を私はしてみせる」 後に西洋美術史を彩る未到の作品に挑む若き才能の胸には、ロマンと情熱がほとばしっていた。 ルネサンスの巨匠と称されるイタリアの彫刻家ミケランジェロ・ブオナローティ(1475―1564年)©アフロ 〈ミケランジェロ〉 私は自分の今あるもろもろの 条件の下で最善をつくすだけだ。 1505年、ミケランジェロは教皇ユリウス2世からローマに呼ばれ、墓碑の制作を命じられる。 栄誉ある聖業に全精魂を傾けるが突如、教皇の“心変わり”によって中断されてしまう。 背後には、ミケランジェロに嫉妬した建築家ブラマンテの画策があったと言い伝えられている。 ブラマンテは教皇に取り入って計画を破棄させ、代わりに大聖堂の大改修を決定させたのだ。 ミケランジェロは侮辱されたばかりでなく、仕事に要した費用の全てを自ら背負うことになった。 さらには、教皇を通じてブラマンテからシスティーナ礼拝堂の天井画の制作を押しつけられる。 彫刻が専門で絵画の技法に疎かったミケランジェロにとって、この仕事は無理難題といえた。 ブラマンテは天井画を失敗に終わらせ、失脚させようともくろんでいたのである。 ミケランジェロは苦悩した。そのころの手紙にこうある。 「これは仕事がむつかしいためと、私の職業ではないためです。こうして私は無駄に時間を失っています」 だが、理不尽ともいえる挑戦に彼はのめり込んだ。終始、天井を見上げながらの作業は過酷を極め、体中をむしばんだ。 「筆から落ちる絵具の滴で、顔はモザイクの床のようだ。腰は腹の方へ曲ってしまい……私の頭も体と同じに妙になってしまった」 地獄のような苦しみの中、足場の設計から絵の具の調合まで全てを一人で担い、孤独と格闘しながら作品に向き合った。 どんな迫害や苦労も、不屈の絵筆を止めることはできなかった。 「わたしの生きているかぎり、わたしのできるかぎり、わたしは依然同じようにやってゆくつもりです」 1512年、4年半の歳月をかけ、ついに礼拝堂の天井画を完成させる。 描画面積1000平方メートルに及ぶ壮大な絵画は、見る者全てを圧倒した。 かくして37歳のミケランジェロは、画家としても他の追随を許さぬ存在となったのである。 困難に打ち勝ち、偉業を成し遂げてなお、彼は現状に満足せず、より高きものを求めて創作に没頭した。 ユリウス2世の逝去後、墓碑の制作を再開し、40年越しで約束を果たす。 そのさなかで、システィーナ礼拝堂の壁画「最後の審判」を完成させた。 その後、大病を患うも、72歳でサン・ピエトロ大聖堂の建築主任に就任。芸術への情熱は晩年になっても消えることはなかった。 「わたしは自分の今あるもろもろの条件の下で最善をつくすだけだ」 芸術こそが居場所だったミケランジェロは、1564年2月、89年近い生涯を終える直前までノミを振るい続けたという。 フランスのノーベル賞作家ロマン・ロランは、ミケランジェロの人生を通してつづっている。 「偉大な魂は高い山巓のようである。風が吹き荒れ雲が包んでしまう。けれどもそこでは他のどこよりも充分にまた強く呼吸できる。 空気は清く心のよごれを洗い落す。そうして雲が晴れると、そこから人類を俯瞰できる」 「あの高みで、人は『永遠なるもの』をより間近かに感じ、そうして日々の闘いのために心を強められて、人生の平野にまた降りてこられるだろう」 〈ミケランジェロの作品を語る池田先生〉 思いも寄らぬ事態に遭っても、逡巡せず決然と行動を開始しよう。 自らのなし得る限りを、信ずる仲間と一気呵成に果たしていくのだ。 「やらんかな」の心意気で! ルネサンス発祥の地といわれ、あまたの芸術家や文人を生み出したイタリア・フィレンツェの町並み。 1981年6月、池田先生は同国の青年たちと共に「ミケランジェロ広場」を訪れ、眼下に広がる景色をカメラに収めた 池田先生はミケランジェロが眠るフィレンツェの地を3度にわたって訪れた。 初訪問となった1981年、イタリアの青年部と共にミケランジェロ広場へ。 さらに郊外のフィエーゾレの丘に足を運び、かなたに広がる市街を眺めつつ、若き友に語りかけた。 「今、ここから見える一つ一つの窓の中に、将来、御本尊を持った同志がいることを想像してごらん」――と。 師の言葉は現実のものとなり、イタリアは欧州広布をリードする模範のスクラムに。 10万人の地涌の陣列構築へ「世界青年学会」の建設に先駆する。 96年、先生が創立した東京富士美術館の尽力で「ミケランジェロ展」が日本で開催。 2015年からは「レオナルド・ダ・ヴィンチと『アンギアーリの戦い』展」が全国各地で行われ、好評を博した。 壁画は共に未完に終わるが、同展ではミケランジェロの下絵の模写も展示され、500年を超えて“夢の競演”が実現した。 17年3月、平和・文化の貢献をたたえ、フィレンツェ市から池田先生に「名誉市民」称号が贈られた。 フィオリーノ金貨(1992年)、平和の印章(2007年)と合わせて、同市からの三つの授与は歴史上初めてのことだった。 授与式の会場となったのは、いずれも、先生の追悼式と同じヴェッキオ宮殿だった。 「レオナルド・ダ・ヴィンチと『アンギアーリの戦い』展」でミケランジェロの下絵の模写「カッシナの戦い」を鑑賞する来場者(2015年、八王子市の東京富士美術館で) 先生がミケランジェロの作品を通して示した指針には、こうある。 ある時は、「ダビデ」像について――。 「それまで『ダビデ』といえば、敵の首を討ち取って踏みつける“勝利の場面”として描かれていた。 しかしミケランジェロは違った。 彼は、戦い終えて勝ち誇るダビデではなく、まさにこれから戦おうとする挑戦の姿、出発の姿を、堂々と彫ったのである」 「勝利を誇る姿――それも美しい。しかし、それ以上に美しく、気高いのは“さあ、戦うぞ!”“いよいよ、これからだ”という、挑戦の姿であろう。 勝ち誇る人間は、傲慢になったり、調子に乗ったりする。 人々を見くだすようになる場合もある。ミケランジェロは、そういう人間を彫ろうとはしなかった。 尊いのは、『戦う』一念である。ある意味で、勝っても負けても、『戦う』こと自体が偉いのである。 何があろうと『戦い続ける』人は、すでに人間として『勝っている』といえる」(1994年8月20日、第2回北海道青年部総会・第6回栄光総会でのスピーチ) またある時は、フィレンツェ軍が敵の奇襲に立ち向かう様子を描いた「カッシナの戦い」に触れ、広布の闘争に挑む友を励ました。 「現実は、思いも寄らぬ事態に遭う時がある。しかし、逡巡せず決然と行動を開始するのだ。そして自らのなし得る限りを、信ずる仲間と共に一気呵成に果たしていくのだ。 この『やらんかな』の心意気に、逆転勝利の道は必ず開かれる」(本紙2017年9月23日付「随筆 永遠なれ創価の大城」) 人生とは、青年とは、戦いの異名である。人類の宿命転換を果たしゆく学会創立100周年までの7年――我らは信心で立ち、信心で戦い、信心で勝ち進む。 |