第37回 L・M・モンゴメリ
23年12月27日 
のぼることが君の使命なら、 のぼらなくてはならない。 続けるんだ。のぼるんだ!

先生は折々にナイアガラ、そしてモンゴメリの作品を通し、創価の宝友に励ましを送ってきた

本年は、小説『赤毛のアン』の出版から115年。

これまで約40の言語で翻訳され、発行部数は5000万部を超える世界的ベストセラーである。

誰もが一度は耳にしたことのある一書だろう。

作者は、ルーシー・モード・モンゴメリ。

『赤毛のアン』の舞台にもなったカナダ東部のプリンス・エドワード島で、1874年に生を受けた。

モンゴメリは2歳を前に母と死別。その後、父の仕事の関係で祖父母の一家に預けられた。これが彼女の運命を大きく開いていくことに。

文筆に長じた祖父、詩人の大叔父、物語や青春の思い出を上手に語る大叔母たちに接し、作家になる夢を育んでいった。

幼少から文字の読み方を習い、読書にも励んだ彼女は9歳で詩作を開始する。

後年、「いつから作品を書き始めたのか」との問いに「文章を書いていなかったときを思い出すことができない」「『書くこと』それがわたしの大目的だったのです」と述べたように、幼い頃から才能に目覚め、筆を執り続けた。

やがて作品を新聞社や雑誌社に送り始めるが、なかなか掲載には至らない。

物語の執筆にも取り組む中、幾つかの詩や散文が新聞に載ることはあっても、原稿が返送される日々が長く続いた。

当時の日記には、こうつづられている。「いまは出発点、これからも書きつづけよう」と。

作家の道を歩む一方で、モンゴメリは進学して教員資格を取得。教壇に立ちつつ、たくさんの作品を投稿した。

苦しみ抜いて書き上げた詩や物語が認められない悔しさ。あふれる涙を拭い、彼女は「どんなに失望してもけっしてあきらめない」と何度も心に誓った。

そして「いつか目的を達することができる」と自分を信じ、黙々と書き続けるうち、徐々に作品が採用され、原稿料が入るようになっていく。

働きながら作家として活動する苦労は想像に難くない。事実、机に向かえないほどの疲労に襲われた日もあったという。

それでもモンゴメリは、早起きして出勤前の時間を執筆にあてた。冬には、かじかむ手で懸命にペンをふるい続けた。

彼女の作品からは、その不屈の魂を見て取ることができる。

「のぼることがきみの使命なら、のぼらなくてはならない。世の中には高い丘へ目を向けなければならない人がいるものだ」

「続けるんだ。のぼるんだ!」

1993年10月、カナダのバンクーバー文化会館を初訪問した池田先生を後継の友らが歓迎。

この日、先生はバンクーバーの同志に「懸命に生きる人生は美しい」など五つの指針を示した

【モンゴメリを語る池田先生】
「人間は世の中の波にもまれて成長していくんだもの」

私は深く強く信ずる。艱難に負けず、創価の旗を掲げて成長しゆく君たちがいれば、地球はもっと美しくなると。

【L・M・モンゴメリ】
小さな障害は、笑いの種だと思い、大きな障害は、勝利の前兆だと考えられるようになったの。

20代半ばになり、モンゴメリは何とかペン1本で生活できるようになった。

出版社に送った原稿10編のうち9編が突き返されるといった現実もあったが、文壇の道で地位を確立するため、寸暇を惜しんで執筆に挑んだ。

「勝ちとることがむずかしければむずかしいほど、勝利はいっそう甘味であり、永久だと、わたしは心から信じている」と──。

新聞社勤務を経て、1902年に故郷に戻ると文筆活動に没頭。長年の願望だった長編小説に取りかかる。

そして、連載小説などの執筆の合間を縫い、約1年半かけて完成させたのが『赤毛のアン』であった。

プリンス・エドワード島を舞台に、孤児院から引き取られた少女アンの成長を描き、世界中で愛される同小説。

だが原稿は当初、どこからも採用されなかった。

売り込んだ5社のうち1社からは“この作品を出版する十分な理由が見いだせない”との批評が。

モンゴメリは深く落ち込み、原稿が目に触れないよう古い帽子箱にしまった。

それから2年ほどたったある冬の日、捜し物をしていた彼女は偶然、『赤毛のアン』の原稿を手に取る。

読み返すと内容に手応えを感じ、もう一度、新たな出版社に送った。

その結果、ついに採用が決定。完成から3年後の08年、念願だった発刊が実現し、瞬く間に大人気小説に。

一躍、ベストセラー作家の仲間入りを果たす。

その後、祖母の死去や次男の死産、夫の病など、幾多の苦難に襲われるが、モンゴメリはペンを執り続けた。

著書の契約を巡る出版社との法廷闘争にも直面。卑劣な虚偽を行う相手に対して、裁判は困難を極めた。

周囲から勝訴は難しいといわれても、彼女はひるまなかった。

「不正とごまかしに対し黙ってはいられない」

「わたしは闘争心を盛りあげて、彼らのおどしなどには目もくれず、とことんまで闘う決意をしたのです」。

約10年にわたる裁判を戦い抜き、勝利をつかみ取ったのである。

世界からの称賛も相次いだ。23年に英国王立芸術院、35年にフランス芸術院の会員に選出。大英帝国勲位も叙勲された。

モンゴメリは自叙伝『険しい道』の最終章に、こう記した。

「長い長い労苦と努力の末、わたしはついに『険しい道』を登りつめたのです。それはたやすい登攀ではありませんでした。

しかし一番苦しい闘いの最中といえども、高峰を踏破しようとする者にだけ体験できるよろこびと痛快な瞬間があるのです」

明年はモンゴメリの生誕から150年。

「わたしと同じように、うんざりするような人生という道程を、苦しみながらいまもなお歩きつづけている人びとを励ますことができるかもしれない。

わたしもその苦しい道程を歩きぬいて、今日のわたしがあるのだから」

──彼女が残した言葉の通り、『赤毛のアン』シリーズをはじめとする名作の数々は、世代や時代を超えて、世界中の人々の心に希望の灯をともし続ける。

池田先生は、国民的作家を育んだカナダを3度訪れ、ナイアガラの滝をはじめとする自然豊かな天地で平和・文化・教育の足跡を刻んだ。

本年は1993年の第3次訪問から30周年の節目に当たる。

これまで先生は、スピーチやエッセーなどでモンゴメリと彼女の作品に光を当ててきた。

“アンの言葉”を通して先生が語った指針に、こうある。

「『わたしはね』『小さな障害は、笑いの種だと思い、大きな障害は、勝利の前兆だと考えられるようになったの』

大きな障害は勝利の前兆──いい言葉である。状況が厳しければ厳しいほど、強気で人生を生き抜いていくことだ。

勇気をもって、断固として前へ、また前へ、突き進んでいくことだ。

御書には、『わざはひも転じて幸となるべし』(全1124・新1633)と仰せである。

皆さまには『祈りとして叶わざるなし』の妙法がある」(2003年9月5日、海外代表協議会でのスピーチ)

「『どんな子にも何かしらいいところがあるのよ』『教師のつとめは、その長所を見つけて、伸ばしてあげることよ』

人材育成において大切なのは、一人ひとりの長所を見つけ、それをほめ讃えていくことだ。伸ばしていくことである。

『アンの青春』のなかで、アンが歌う詩の一節に、こうあった。

『朝ごとに、すべては新しく始まり/朝ごとに、世界は新しく生まれ変わる』

また、この詩の続きには、『今日は新しく生まれ変わる好機』とある。

どうか皆さまは、同志とともに、一日また一日、生まれ変わっていくように、新鮮な息吹で前進していただきたい。

人と比較する必要はない。あくまでも、自分らしく、粘り強く進めばよい。また、途中の姿で一喜一憂することはない。

最後に勝てばよいのである。そして、絶対に勝っていけるのが、妙法である」

(06年2月14日、女子部・婦人部合同協議会でのスピーチ)

さらに先生は「誓いの青年に贈る」と題した随筆で、モンゴメリの言葉を紹介し、愛弟子たちに呼びかけた。

「『人間は成長しなくちゃ』『人間は世の中の波にもまれて成長していくんだもの』

私は深く強く信ずる。

艱難に負けず、創価の旗を掲げて成長しゆく、君たち、貴女たちがいれば、この地球は、もっともっと、美しくなると。

誓いの青年よ! 最愛の弟子たちよ! 断じて、勝利また勝利の歴史を飾りゆけ!」(本紙14年7月11日付「随筆 民衆凱歌の大行進」)

いよいよ始まる「世界青年学会 開幕の年」。新生の池田門下が誓願の勝ち鬨を上げる「まことの時」がやって来た。