| フランシスコ・デ・ゴヤ 26年2月7日 |
![]() 池田先生は1983年6月、スペインの首都マドリードを訪れ、ゴヤが眠る廟(びょう)の近くにある石垣を仰ぎ見た(先生撮影)。「それぞれの石が、どれひとつ欠けてもならない、かけがえのない位置を占め、風雪に揺るぎもせずに、そびえ立っていた」と後に記している 〈ゴヤ〉 我は人間なり、 ゆえに黙ってはおれぬ。 人は人だ、俺は自分に生きよう。 きょう7日、東京富士美術館(八王子市)で「フランシスコ・デ・ゴヤ 四大連作版画展」が開幕する(3月22日まで)。 “近代絵画の先駆者”とうたわれるゴヤ。今回は、同館が所蔵する彼の四大連作版画・215点が一挙に公開される。 同館では1993年、「巨匠ゴヤの名作」展を開催している。この折、鑑賞に訪れた創立者の池田大作先生は、会期中の同年6月に本紙で「ゴヤをめぐる語らい」を連載し、次のような感想を寄せた。 「(ゴヤの作品は)地味のようだが、じっくり観れば、これほど絢爛たる天才を感じさせる絵画も少ない。何より、そこには『人間』がいる。つまり、不当なものに対して『なぜだ!』『おかしいではないか!』と、怒りをもって問い詰める精神がある。『我は人間なり、ゆえに黙ってはおれぬ』という鮮烈な気概に貫かれています」 ゴヤは1746年3月、スペイン北東部にある小さな村の貧しい家庭に生まれた。来月でちょうど生誕280年を迎える。 13歳の頃から絵画の世界で修業を始め、イタリア留学等を経て、国王の肖像画などを描く宮廷画家の妹と結婚。マドリードに出て、王宮で用いられる織物の下絵(カルトン)の画家となる。 長い下積みが続いたが、40代で転機が巡ってくる。念願だった宮廷画家に任命されたのだ。出世の階段を駆け上がり、画家ゴヤの人生は順風満帆のように見えた。 悲劇が襲ったのは、46歳の時。ゴヤは重い病にかかり、奇跡的に一命を取り留めたものの、聴覚を完全に失ってしまう。 だが後年、“自分の人生の師匠は、聴覚の喪失であった”と語ったように、この絶望的な試練が彼を画家としての高みへ導く。それは、同時代を生きたドイツの楽聖ベートーヴェンにも似ていた。 池田先生は述べている。 「ゴヤは重病に倒れ、回復したときには耳が聞こえなくなっていた。ベートーヴェンの聴覚が失われる10年ほど前のことです。 ゴヤは46歳だった。ここから、ゴヤの後半生が始まる。(中略) ゴヤを救ったのも、『描く』という使命感だった。陽気な社交家だったゴヤは、もはや社交は不可能となり、内省的になった。そして決めた。人は人だ、俺は『自分自身に生きよう』と。ここから彼の真の才能が輝き始めるのです」 〈ゴヤ〉 私は視力も失い、力もない。 あらゆるものが欠けているが 意志だけはなくしていない。 1807年、フランス皇帝ナポレオンがスペインに侵攻した。国王は失脚し、フランスから新たな王が送り込まれる。これに抵抗したマドリードの市民たちは武装蜂起し、独立戦争が勃発した。 戦火は無数の尊い命を奪った。何年もの間、道端には多くの死体が放置され、暴行や略奪、銃撃は日常の光景となった。疫病もまん延した。 当時、ゴヤは首席宮廷画家となり、スペイン画壇の頂点に立っていた。惨劇を前に彼は、戦争がもたらす、あらゆる意味でのおぞましさ――人間と人間による暴力と狂気を作品に描き始める。 その一つが、連作版画『戦争の惨禍』。“人間の心に宿り、人間同士に殺し合いをさせるこの力とは何なのか”――それが作品全体を貫く問いだった。 戦争の悲惨さを伝えるこの版画には、祖国の無能かつ卑劣な指導者のせいで虐殺された民衆の姿が刻まれている。 それは“単なる風刺の域を超えて、運命に押しつぶされる人間の絶望や、逃げ場のない状況に追い込まれた人間の普遍的な感情を、見る者に突き付ける”と、ある文学者は述べている。 動乱のさなか、ゴヤは最愛の妻との別れに直面する。それでも彼が筆を置くことはなかった。 その後、6年に及んだ戦争は終わりを告げ、新しい国王を祖国に迎えるが、スペイン社会の混乱は続いた。やがて再び独裁政治に戻ると、78歳になっていたゴヤはフランスに亡命する。 それでも彼の創作意欲は衰えなかった。新しい技術も次々と習得した。亡命先からの手紙には、こうつづられている。 「私は視力も失い、力もなく、ペンもインキ壺もない。あらゆるものが欠けているが意志だけはなくしていない」と。 82年の生涯を生き抜いたゴヤが晩年に描いた一枚の絵がある。2本のつえで体を支えながら、なお歩こうとする白髪の老人。自画像とされるその絵に添えられた言葉が、彼の一生を物語る。 「それでも俺は学ぶぞ」 〈ゴヤを通して語る池田先生〉 あの人がこうだからとか、 この人がこう言うからとか、 それは他人に生きている姿です。 自分自身に生きてこそ、人間は 真の“底力”を発揮することができる。 池田先生は1961年10月、スペインに第一歩をしるした。本年は65周年の節目に当たる。 2度目の訪問は83年6月。首都マドリードで、ゴヤが眠る廟の近くにあった石垣に目を留め、石と石が美しいスクラムを組んで並ぶ姿をカメラに収めた。 それから10年後、先生は本紙で「ゴヤをめぐる語らい」を連載。絶望と孤独を勝ち越えた巨匠の生きざまを通し、広布の最高峰に挑む同志にエールを送った。 〈「ゴヤをめぐる語らい」から〉 人生には実に、さまざまな「山」がある。次から次に、課題が出てくるものです。 しかし、全部、煩悩即菩提であり、「山」を越えるたびに、境涯は高まり、広がる。逃げないで、あらゆる課題へ、ぶつかって、乗り越え、乗り越えていくのです。それが、本当の人生だ。「生きる」ということです。 打ち勝てば、悩みは全部、喜びに変わる。自分自身の拡大となる。 「絶望とは、愚か者の結論なり」という言葉があるが、希望をしっかり握りしめているかぎり、「戦おう」という真剣な行動があるかぎり、必ず“春”は来るものです。 ◇ 耳が聞こえなくなったとき、ゴヤは世間的には栄光の光のなかにいた。 貧しい生まれから「立身出世」することが、ゴヤのそれまでの人生の目的だったようだ。そして、悪戦苦闘のあげく、念願の宮廷画家になった。得意の絶頂だった。――その直後に、この悲劇が来た。 ゴヤには、人生が「無音の牢獄」のように感じられた。全世界が突然、“音を消したテレビ”のように見えたかもしれない。自由に会話もできなくなってしまった。 「孤独については、私は人よりも、くわしい」――ゴヤは、こんな悲痛な言葉を残しています。 ただ彼は、孤独を絶望に直結させるほど弱くはなかった。孤独を「一人立つ」強さへと鍛えていった。 王侯貴族に“気に入られよう”とするだけの生き方を捨てたのです。自分自身に生き始めた。 アンドレ・マルロー氏は、ゴヤが、人に気に入られようとする迎合を捨てたとき、天才が光り始めたと論じています。(中略) ゴヤは、自分自身に生き、自分自身に徹することで、「現実」がはっきり見えてきた。その結果、後世の万人の心をつかむ名作を描くことができたのです。 自身に生きる――あの人がこうだからとか、あの人がこう言ったからとか、この人がこうしてくれたら、また、この人がこう言うからとか、それは他人に生きている姿です。自分自身に生きてこそ、人間は真の“底力”を発揮することができる。 ゴヤは多面的な人であり、ひとつのタイプに当てはめて理解しようとすると、必ず、そこから、はみ出てしまう。 また、決して聖人君子でもなければ、超人的な英雄でもなかった。弱さも、ずるさも、全部、含めて、彼は人間そのものであった。彼の真実は、ただ作品のなかにのみ残されていると言えるでしょう。 私どもも、だれもが何か「作品」を残したい。芸術作品ということだけではなく、一生をかけて、自分はこれだけのものを創った、建設した、表現した、より良くした、そう満足できる何かを残したい。 そして結論的に言えば、「広宣流布」につながる建設こそ、永遠に色あせず、時とともに、いよいよ輝きを放つ価値創造なのです。 そのことを確信する「心」が、自分の創造力と福徳を、更に拡大していく。信心は「心」がどうかで決まるのです。 ◇ 〈5回にわたる連載は、次の言葉で結ばれている〉 仏法も「行動」のなかにある。正義は「受難」のなかにある。幸福は「戦い続ける不屈さ」のなかにある。決して、座して天祐(=天の助け)を待つような、何かにすがる信仰ではない。諸天善神といっても、それを動かすのは結局、自分自身以外にはない。 自分自身で人生を切り開く、自分自身で我が生命の宝蔵を開く、知恵を開く、民衆の勝利の道を開きに開いていく。 そうした「戦う人間」こそ、大乗仏教なかんずく日蓮大聖人の仏法が教える人間像なのです。 ゴヤを苦しめた独裁者(フェルナンド7世)らは死に、歴史に汚名だけを残した。しかし、ゴヤの芸術は今なお生き生きと、人類の心に生き続けています。 「権力」の命は短く、「文化」の命は長い。そのことをゴヤは雄弁に教えてくれていると言えるでしょう。 |