| アドルフォ・ペレス=エスキベル 25年11月9日 |
| 〈エスキベル博士〉 共通の目的を目指して進むとき、 自由や平和を志向しているとき、 人間は尋常ではない能力を発揮する。 今から45年前、ノルウェー・ノーベル委員会は1980年の「ノーベル平和賞」を、南米の人権の闘士に授与した。 「非暴力を旗印に、人権擁護を訴えて戦い、弾圧で闇から闇に葬られた人々に光を与えた」――アルゼンチンのアドルフォ・ペレス=エスキベル博士である。 それは「個人の名」においてではなく、「全員の名」のもとに受けた栄誉だった、と博士は述懐する。「先住民、社会組織、民間団体、宗教団体など、何千人もの人とともに戦い、希望も苦しみも分かち合ってきた結果だからです」 博士は31年11月、首都ブエノスアイレスの貧しい漁師の家に生まれた。「1日食事があると、次は3日後」という生活の中で、民衆に「正当な権利を求める精神」が欠如していると感じたという。 ある時、新聞配達中に知り合った古本売りから2冊の本を譲り受ける。その一つがマハトマ・ガンジーの自伝。人間の尊厳のために生きたインド独立の父の足跡は、後の人生に大きな影響を与えた。 10代になると、キリスト教のグループなどと共に人権問題に関わるように。国立美術学校と国立ラプラタ大学を卒業後は、彫刻家、画家、建築家等として、多彩な才能を発揮していく。 母校で教授を務めていた70年代前半、中南米諸国は軍事政権の圧政に苦しんでいた。隣国のチリでは、73年にクーデターが勃発。独裁者の支配により多くの国民が誘拐され、行方不明者が続出する。 銃殺、拷問、投獄……。抵抗すれば容赦なく命を奪われ、何千もの人々が亡命を余儀なくされた。 博士は、彼らをブエノスアイレスで受け入れ、第三国に出国させて、家族と安全に暮らせるよう支援する。その中で、翌74年に人権団体「平和と正義のための奉仕」を結成。創設者の一人として会長に就くと、「非暴力による闘争」をスローガンに掲げ、民衆の連帯を広げていく。 当時を振り返って博士は言う。 「人間は、人間としての共通の目的を目指して進むとき、自由や平和を志向しているとき、尋常ではない能力を発揮するものです」 「臆病に負けてしまえば、人間としての根本条件を失い、暴力と恐怖を生み出す権力に追随するだけの人間に堕落してしまいます。そうはなるまいと私は決めていたのです」 〈エスキベル博士〉 小さな集団の中に、無名でも、 個人や社会の手本となる人がいる。 そこにこそ、目を向けるべきです。 一方、アルゼンチンでは、軍政と民政による政権交代が繰り返され、不安定な時期が続いていた。 軍が全権を握り、「汚い戦争」と呼ばれる恐怖政治が幕を開けたのは1976年3月。大勢の無実の人々が逮捕され、暗殺された。ある日、突然、大切な家族を、愛する子どもを奪われた。その数は実に3万人にも上るといわれる。 権力の魔の手は、エスキベル博士にも及んだ。「平和と正義のための奉仕」の拠点に警察が押し入り、同志と長男を連行。国外にいた博士は即座に国際的キャンペーンを展開し、2日後には全員を解放させることに成功する。 しかし翌年、博士自身も渡航先のエクアドルでとらわれの身に。何とか釈放されたものの、帰国したアルゼンチンで再び拘束されてしまう(77年4月)。 投獄されたのは、4歩ほど歩くのがやっとの小さな独房だった。電気ショックなどの激しい拷問が行われたという。 それでも博士が服従することはなかった。 「どんな牢獄も、自由を幽閉することはできない」「自由は、自分自身のなかに、民衆の側に立つ決意や誓いのなかに、息づいているからです」 家族をはじめ、多くの人たちが共に抵抗し、祈り、戦っていることも博士に勇気を与えた。 最大の支えはアマンダ夫人の存在だった。弁護士らと一緒に当局に乗り込み、博士の解放を強く要求。当初、警察は拘束を否定していた。だが、夫人の毅然とした姿に、拘束場所を認めざるを得なくなったのだ。 死の淵に立たされた瞬間もあった。ある日の早朝、牢獄から出された博士は、飛行機に押し込まれる。後部座席に鎖でつながれ、上空から投げ落とす暗殺計画が実行されようとしていた。 ところが、直前で変更の指令が入り、計画は中止に。その背景には「良心の囚人」たる博士の救済を訴える、アマンダ夫人ら多くの人々の抵抗運動があった。 やがて抗議の声は世界中に広がり、14カ月もの過酷な獄中闘争の末、博士はついに釈放の時を迎える(78年6月)。 その後、運動が急激に拡大する中、博士に「ノーベル平和賞」が贈られる。軍事政権が崩壊したのは、受賞から3年後の83年。7年半ぶりに民政が復活し、アルゼンチンに“民衆勝利の夜明け”が到来したのである。 〈エスキベル博士と語り合う池田先生〉 誰しも、自分が住む地域がある。 その場所をより善くするために、 厳然と戦った証を残していこう―― そう勇敢に立ち上がったときに、 宿命は使命に変わっていく。 ![]() 来日したエスキベル博士㊨とアマンダ夫人㊥を池田大作先生が歓迎。この日、博士は芳名録に「民衆とともに 大いなる力と希望を。――平和と善の同志として」と記した(1995年12月、都内で) 「私は以前からSGI(創価学会インタナショナル)会長の著作を読み、お目にかかるのを楽しみにしていました。きょう、こうして語っておりますと、ずっと前からの知り合いだったように思えてなりません」 1995年12月、来日したエスキベル博士は池田先生に言った。 「民衆とともに」との信念で結ばれたこの出会いから、来月で30周年を迎える。 この日、先生は自らも不当逮捕・勾留された経験から、波乱多き「人権闘争の人生」を選んだ夫妻の忍耐の勝利を心からたたえた。 「仏法も『人権闘争』です。人を救う、その現実の『行動』にこそ仏法は生きているのです」 博士は応じた。 「牢獄で私は学びました。極限状態にあっても生き抜く力、抵抗する力を。その力とは、精神の力であり、魂の力です」 そして席上、博士から、書簡を通じて対話を続行したいとの希望が寄せられ、2009年に対談集『人権の世紀へのメッセージ』の発刊が実現する。 さらに博士は創価大学を訪れ、学生と交流。アルゼンチンSGIの集いにも出席し、青年らと交友を重ねた。18年には、先生と共同声明「世界の青年へ レジリエンス(困難を乗り越える力)と希望の存在たれ!」を発表している。 「人権闘争」「民衆の力」「女性」などを巡る対談集の中で、二人は語り合っている。 博士 “小さな集団や村のなかに、そして小さな町のなかに、無名でも、個人や社会の手本となる人がいる”ことを、どうすれば伝えられるでしょうか。 私の評価は間違っていないと信じています。私たちは遠い外のことや大きなことには目を向けますが、日常の出来事から生まれることとなると、“ささいであっても偉大なこと”があるのに、目を向けなくなるのです。 先生 以前、ある著名な方とお会いしたとき、「この世界で一番尊くて一番偉い人はだれですか」と質問されたことがあります。私は一言、「最も庶民のお母さんです」とお答えしました。(中略) 脚光を浴びない舞台で、人々のために尽くす庶民にこそ、本当の誠実と知恵が、献身が光る尊き人生があります。 博士 暴力の犠牲者の大半は、兵士ではなく、女性や子どもたちです。(中略) しかし、そういう困難にも負けず、「公平で人間的な社会を築こう」と抵抗運動に参加する女性もいます。彼女たちは、自分という存在と人生の証として、何とか、その場所で立ち上がったのです。 先生 人間は、だれしも、生まれた故郷があり、祖国がある。そして、自分が住む地域があり、社会があります。そうした、自分の生と切り離せない場所をより善くするために、厳然と戦った証を残していこう。自分らしく納得できる行動を貫いていこう――そう勇敢に立ち上がったときに、宿命は使命に変わっていきます。そこにこそ、鍛えられた真実の人間性が輝くのではないでしょうか。 そうした、故郷や地域に深く根ざし、貢献していく生き方は、男性よりも女性に多く見られる優れた特質と思われます。 出会いの日から、14年の歳月をかけて完成した対談集の最後のテーマは「青年」。二人は訴えた。 博士 青年は諸国民の未来であるといわれますが、私はむしろ青年は「現在であり、今日であり、今である」と呼びかけたいのです。なぜなら、青年が“今”何をしているか、その現在が未来を決定するからです。 先生 博士をはじめ、私が対話を重ねてきた世界の識者もまた、人類の未来は青年の双肩にかかっている――という点で、意見が一致しています。私どもは、一段と青年に一切の光を当てて、地球的問題群の解決へと行動する民衆の連帯を築いていきたいと思います。 |