アンデルセン
25年9月15日 

アンデルセンの足跡が深く刻まれた北欧デンマークの首都コペンハーゲンの街並み(2018年5月撮影)。池田大作先生は1961年10月、この地に欧州広布の第一歩をしるした。同国には今、創価のスクラムが大きく広がっている

〈アンデルセン〉
私の今までの生涯には晴れた日も
曇った日もあった。けれども全ては
結局、私のためになったのである。
 幼い頃に読んだ名作童話に「みにくいアヒルの子」「マッチ売りの少女」「人魚姫」を挙げる人は多いだろう。作者はハンス・クリスチャン・アンデルセン。デンマークが誇る「童話王」であり、本年は生誕220年・没後150年に当たる。
 
 「私の今までの生涯には晴れた日も曇った日もあった。けれども、すべてはけっきょく私のためになったのである。いわば、一定の目的地へ向う海の旅のように、舵を取り進路を選ぶのは私自身である」
 
 そう自伝に記したアンデルセンは1805年4月2日、オーデンセという町に靴職人の一人息子として生まれた。家は貧しかったが、読書家だった父が『アラビアン・ナイト』を読み聞かせるなど、さまざまな本に触れて育った。
 
 11歳の時に父と死別するも、母の慈愛に包まれて成長し、芸術の才能を伸ばしていく。皇太子の前で芝居と歌を披露したこともあったという。
 
 その中で俳優や歌手になる夢を抱き、14歳で単身、コペンハーゲンへ。戸惑う母にアンデルセンは言った。「ぼくは有名になるよ、きっとなってみせる。だれでも、まず厳しい困難を耐え忍んだあとで、有名になるんだ」
 
 どんなにばかげていても、子どもにはやりたいようにやらせたい――亡き夫の言葉にも背中を押された母は息子の意思を尊重する。
 
 しかし現実は厳しく、雇い先が見つからず、食べるものにも困る日々が続いた。それでも彼は歯を食いしばって前を向いた。「一見この上なく大きく思われた不幸のなかに、じつは向上の一段階が横たわっていたのである」
 
 その後、バレエ学校や合唱団に在籍した時期もあったが、見込みがないことを理由に除籍されてしまう。ならば脚本を書いて劇場に出そうと、懸命に筆を進める中、努力が認められ、ラテン語学校に入学できることに。劇場支配人の支援を受けながら辛抱強く学び、大学まで通うことができた。
 
 この間、匿名で新聞に掲載された自作の詩が大きな話題に。大学を卒業する29年には、初の小説を自費出版し、ドイツ語版が出るほど人気を博した。
 
 そこからアンデルセンはヨーロッパ各国への旅を開始。見聞を広めながら創作を続け、ローマ滞在中に長編小説を書き始める。

〈アンデルセン〉
気高い確信をもって、最善のみを
目標に努力する人の前に、
私はつつしんで頭をたれる。
 アンデルセンは作家として有名になる一方で、悪意の中傷に直面する。
 
 ある作家には“思いつきの即興詩人”と非難された。だが「このうまい言葉が私の新たな創作に名前と人物とをあたえる火花となった」と、彼は批判を逆手に取り、飛翔への力に変えた。
 
 デンマークに帰国後、1835年に初の長編小説を出版。ローマ生まれの少年が主役の自伝的物語で、タイトルは『即興詩人』であった。初版はたちまち売り切れとなり、ドイツでは第2版が出る前から大評判に。その後、英語やフランス語など7言語に翻訳され、アンデルセンの出世作となった。
 
 同書を発刊したこの年、最初の『童話集』も著している。
 
 童話は当時、創作とは無縁と思われていた。有名なグリム兄弟の童話も、ドイツ中の口承伝承を編さんした民話の集大成である。後に「童話王」と呼ばれるアンデルセンの革新性は、自らの新しい物語を創作したことにあるといわれている。
 
 37年には「人魚姫」「はだかの王様」を収録した『童話集』を刊行。人間の王子との悲恋を描いた「人魚姫」によって、アンデルセンは国際的作家としての地位を確立させる。「はだかの王様」は人間の虚栄の代名詞的寓話で、同じく彼の代表作となった。
 
 祖国では厳しい評価を受けていたアンデルセンだったが、「みにくいアヒルの子」を収めた43年発表の『童話集』が、それを一変させる。「わたしのほかの作品が本国でこれほどの成功を味わったことはありません」と、彼はつづっている。
 
 「みにくいアヒルの子」は、アンデルセンが長い歳月をかけて取り組んだ作品の一つである。
 
 ――アヒルのお母さんが温めていた卵から、ある日、次々とヒナが誕生した。最後に生まれた1羽は体が大きく灰色の毛で、きょうだいなどから“みにくい”といじめられた。
 
 孤独と厳冬に耐えた“みにくいアヒルの子”は、春になると翼を広げて大空を飛ぶことができるように。そして、降り立った池で白鳥の群れに出あう。
 
 “きっと、みにくいと思われるに違いない……”。悲しくなって下を向いた時、水面に映った自分の姿を見て驚いた。そこにいたのは“みにくいアヒルの子”ではなく“美しい白鳥”だったのだ――
 
 自身の苦悩の人生と重ね合わせたとされる物語は、今日まで世界中で愛読されている。
 
 アンデルセンが生きた時代、ヨーロッパは幾たびもの戦乱に見舞われた。48年には各地で革命が起き、デンマークとドイツとの間で戦争が勃発。対立に胸を痛めたアンデルセンは、親交のあったドイツの次期大公に手紙を書き送る。
 
 「わたしはすべての人間の尊さを固く信じ、理解しあうことさえできれば、だれもが平和に栄えることができると確信しています」
 
 彼が生涯で残した童話は約150編。偉大な功績をたたえ、67年にはデンマーク国王から名誉顧問官に任命され、故郷オーデンセから名誉市民として迎えられた。
 
 「王侯にせよ一介の市民にせよ気高い確信をもって、最善のみを目標に努力する人の前に、私はつつしんで頭をたれる」――自らも最善を尽くして生き抜いたアンデルセンは75年8月、70歳で人生の幕を閉じる。国葬としてコペンハーゲンの大聖堂で営まれた葬儀には、国王や皇太子、各国大使をはじめ、多くの人々が参列した。

「人生という学校は人を向上させる
ところ以外の何ものでもありえない」
人間として向上しゆくために
信心がある。そして、一生成仏という
究極の向上の道こそが、仏道修行だ。
欧州を初訪問し、デンマーク・コペンハーゲンの海岸に立つ池田先生(1961年10月5日)。後方にはアンデルセンの童話がもとになった「人魚姫の像」が。童話は世界中で親しまれ、先生もスピーチ等で紹介してきた
 1961年10月5日、池田先生は欧州を初訪問した。その際、最初に訪れた地こそ、アンデルセンの祖国デンマークであった。明年は65周年の節目に当たる。
 
 首都コペンハーゲンに到着した先生は、美しく落ち着いた街並みを見つめながら、地涌の菩薩の出現を心の中で祈り続けた。
 
 さらに、コペンハーゲンの海岸にある「人魚姫の像」の前に立ち、童話王の足跡をしのんでいる。
 
 アンデルセンの名作の数々は、日本の子どもたちにも長く親しまれてきた。今月23日で結成60周年を迎える学会の少年少女部には、「アンデルセン」の名前が入った合唱団も各地にある。
 
 先生は「少年少女きぼう新聞」で連載された「希望の虹――世界の偉人を語る」で、アンデルセンを紹介。「みにくいアヒルの子」に触れ、「白鳥」となって世界文学の大空に羽ばたいた彼の姿を通し、励ましの言葉を贈った。
 
 「みんなは、自分にしかない、すばらしい“宝もの”をもっています。その“宝もの”を最高にかがやかせるのが、題目の力です。今は分からなくても、いつか、必ず分かる時がきます。(中略)
 
 どんな時も希望をもって挑戦する人が、偉い人です。何があっても挑戦を続ける人が、最後に必ず勝利する人です。夢をもち続け、へこたれないで努力するかぎり、苦しいことも悲しいことも全部、自分の成長の力に変えられます」(2015年4月号)
 
 アンデルセンの言葉を引いて語り残した信心の指針も数多い。
 
 「アンデルセンの箴言を、いくつかご紹介したい。『人生という学校は人を向上させるところ以外のなにものでもありえない』
 
 人間として向上しゆくために信心がある。そして、一生成仏という究極の向上の道こそが、学会活動である。仏道修行である。
 
 また、アンデルセンは『苦難は私たちの船を進める風』との諺を胸に刻んでいた。
 
 仏法の『煩悩即菩提・生死即涅槃』の法理とも響き合う。御書に『難が来ることをもって、安楽であると心得るべきである』(全750・新1045、通解)と仰せのように、広宣流布も、人生も、難と戦うからこそ、偉大な前進があるのだ。
 
 アンデルセンは確信していた。『ことばは鍛えぬかれて、風を切る矢ともなれば炎の剣にもなる』
 
 『声仏事を為す』(全708・新985)である。ともあれ、しゃべることだ。語ることだ。叫びきることだ。その言論の力が、邪悪を破り、正義を宣揚する宝剣となる。
 
 そして、アンデルセンは綴った。『青春の心は未来そのものである』
 
 わが青年部よ、創価の未来を君たちが切り開いていくのだ!」(09年5月3日、5・3記念代表者会議でのスピーチ)
 
 アンデルセンの自伝は次の言葉で始まる。
 
 「私の生涯は波瀾に富んだ幸福な一生であった。それはさながら一編の美しい物語である」
 
 広布に駆ける私たちも悪戦苦闘を突き抜け、歓喜と功徳あふれる自分史を描こう。デンマークをはじめ世界の創価家族と心一つに、人類の宿命転換という壮大な夢を目指して――。