第21回 エンリケ航海王子
22年7月9日 
恐れなく航海を続け、岬越えを達成せよ!

先生はつづった。「関西の勝利が全国の勝利へと深く連動しているように、兵庫の勝利は、必ず関西の常勝へと、大きくつながっていくのだ」

ポルトガルの歴史を語る池田先生

臆病では、前進も勝利もない。
「日蓮が弟子等は臆病にては 叶うべからず」である。
広布の新航路を開くのは勇気だ。
自身の心の“臆病の岬”を越えることだ。
水平線のかなたに広がる“新世界”を求めて、人間が未知の領域へと乗り出していった「大航海時代」。

その歴史は15世紀、ヨーロッパ西端の国から始まった。

当時、ヨーロッパは東西を結ぶシルクロードを遮断され、文化的・経済的な孤立を深めていた。

その中で「陸」から「海」へ目を転じ、東洋への新たな道を開こうとする若き指導者が現れた。
ポルトガルのエンリケ航海王子(1394─1460年)である。

国王ジョアン1世の三男として生まれたエンリケ王子は、21歳の時、北アフリカのイスラム世界に触れ、大ポルトガル建設への志を強くする。

自ら宮廷生活を捨て、イベリア半島の西南端にあるサグレス岬へ移住。探検事業家として航海者たちを支援・指導した。

だが十数年にわたってアフリカ西海岸を探索するも、なかなか新航路は見つからない。なぜか。

船乗りたちが、ある地点以上に進もうとしなかったからである。

その地点とはボジャドール岬。ここから先は怪物が住み、海は煮えたぎり、滝となって落下する。

中世以来、「不帰の岬」として恐れられてきたことから、船乗りたちは王子の命に背き続けたのだ。

ある日、王子は彼らに告げた。

「もしかりに、世界でいわれているような噂が、すこしでも根拠のあるものならば、わたしもおまえたちをこれほどまでに責めはしない。

しかしおまえたちの話を聞いていると、ごくわずかの航海者たちの意見に過ぎないではないか。

しかもその連中というのは(中略)羅針盤も航海用の海図も使い方がわからない連中ばかりなのだ」

恐れなく航海を続け、岬越えを達成せよ!──王子の叫びに、一人の航海士が立ち上がった。

そして1434年、ついに岬越えは成し遂げられたのである。

いわばそれは、何世紀もの間、船乗りたちがおびえ続けた“恐怖の岬”という“臆病の壁”を越えた瞬間だったと言える。

“見えない敵”の向こう側には、穏やかな海が広がっていた。

ここから、歴史の歯車は大きく動きだした。

王子亡き後、先駆者の遺志は後継の航海者に受け継がれ、アフリカの喜望峰への到達、インドへの新航路の発見などに結実するのである。

池田先生は折々に、波濤を乗り越えた勇者から学ぶ“勝利の要諦”を共戦の同志に伝えてきた。

小説『新・人間革命』第10巻の「新航路」の章には、1965年10月27日、ポルトガルに第一歩をしるした山本伸一が、エンリケ航海王子の逸話を通して同行の友に語る場面が描かれている。

「ポルトガルの歴史は、臆病では、前進も勝利もないことを教えている。

大聖人が『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』(新1675・全1282)と仰せのように、広宣流布も臆病では絶対にできない。

広布の新航路を開くのは勇気だ。自身の心の“臆病の岬”を越えることだ」

思えば、初代会長・牧口常三郎先生の少年時代は、海と共にあった。第2代会長・戸田城聖先生と池田先生も、海の近くで育った。

池田先生が戸田先生の前で何度も歌った曲の一つに、旧・東京高等商船学校の寮歌「白菊の歌」がある。

ある時、関西の会長室で、歌を聴き終えた戸田先生が「この歌の心は何だと思う」と池田先生に尋ねた。

池田先生は即座に答えた。

「この歌は、海軍の士官学校ではなく、もともと民間の航海士と機関士を養成する、商船学校の歌です。

“戦争のためではなくして、平和のために、七つの海へ! 小さな島国の権威がなんだ! 我らは真の海の英雄として、世界と友情を結びゆくのだ!”

──そうした心意気が伝わってきます」

こう語った当時の心情は、関西そして兵庫の友に贈った「随筆 新・人間革命」〈民衆の歓喜の港 友情の街〉につづられている。

その中で先生は、こうも記した。

「広宣流布とは、民衆の幸福のため、世界の平和のための正義の大航海である。

航海には『港』が必要だ。わが創価の大船団が『完勝』の大海原へ船出する港は、どこであろうか。

その重要な母港こそが、大兵庫であることは、議論の余地はない」(本紙2003年10月27日付)

今、その兵庫をはじめ神奈川、愛知、埼玉、福岡など各地で、正義の大航海を進めゆく創価の大船団──波濤を越えた先には、凱歌の大海原が洋々と広がっている。