第19回 ジョージ・マロリー
22年5月8日 
エベレストの登攀者

私たちは進み続ける。
道が困難であればあるほど、勝利も大きい。

「なぜ山に登るのか」
「そこに山があるからだ」 
イギリスの登山家ジョージ・マロリーが、ある新聞記者と交わしたとされる有名な言葉である。 

「山」とは、世界最高峰のエベレスト。標高8848メートルにも達するその頂は、北極・南極に次ぐ地球の「第3の極地」と呼ばれ、長い間、登攀は不可能とされてきた未踏の地であった。 

エベレストへの挑戦が始まったのは、約100年前。第1次世界大戦後の1921年、イギリスが最初の遠征隊を派遣し、その一員として参加したのが、当時34歳のマロリーだった。 

彼はウィンチェスター校、ケンブリッジ大学で登山技術を磨き鍛えた一流のクライマー。

それでも眼前にそびえるエベレストは「全ての山々を領有する支配者」のように見えたという。 

エベレストの過酷さは想像を超えていた。

高山病や悪天候との熾烈な戦いに加え、切り立つ巨大な岩峰が行く手を阻んだ。

この時の真情を記した手紙がある。

「山頂に到達できる望みはもうほとんどありません。しかし、もちろん私たちは、到達を期しているかのごとく前進をつづけるでしょう」

「われわれは最後まで最大限の希望を持ちつづけていきます」

絶望的な状況に陥ってもなお、彼を突き動かしたものは何か。

それは飽くなき探求心であり、「道が困難であればあるほど、また危険が多ければ多いほど、勝利も大きい」という不屈の信念だった。 

数週間に及ぶ偵察の末、ついにマロリーは山頂へと続くルートを発見する。

翌22年の第2次遠征では、最高到達点記録を更新。しかし、登頂まであと一歩に迫った24年の第3次遠征中、マロリーと同行者は帰らぬ人になってしまう。 

幾度にわたる捜索を経て、遺体が見つかったのは失踪から75年後のことであった(1999年)。 

彼が頂上にたどり着いたかどうかは、今も謎のままだ。だが、勇気ある先駆者の遺志は後世の登山家に厳然と受け継がれていく。

――1953年、イギリスは9度目の遠征隊を送り込んだ。 

その隊員に選ばれたのは、ニュージーランドのエドモンド・ヒラリーと、現地人のシェルパ(案内人)であるテンジン・ノルゲイ。

人類の挑戦を何度もはね返してきたエベレストに、国籍も境遇も異なる2人の青年が挑んだ。

マロリーの最初のアタックから、32年の歳月が流れていた。


〈人類初のエベレスト登頂者 エドモンド・ヒラリー〉

我々が征服するのは、山ではなく、自分自身である。 

ヒラリーは20歳の時、旅行で訪れたニュージーランド南島の山々に魅了され、登山活動を開始。国内の名峰で経験を積んだ。 

イギリスのエベレスト遠征隊に参加したのは、1951年からである。

この年の挑戦は失敗に終わるが、彼に「諦め」の文字はなかった。 

「必ず舞い戻って、登頂してみせる。なぜなら、山はこれ以上大きくならないが、私はもっと成長できるからだ」 

一方、テンジンはエベレストの南麓にある山岳民族の村の出身。

貧しい家計を支えるため、ヨーロッパからやって来る登山隊の案内役や荷運びを生業としながら、シェルパとして優れた実績を残していった。 

53年5月29日の午前6時半。遠征隊の第2アタックに名を連ねた2人が最終キャンプ地を出た。

極寒と烈風、酸素濃度は地上の3分の1という「デスゾーン(死の地帯)」の中を敢然と踏破していく。 

“我々が征服するのは、山ではなく、自分自身である”(ヒラリー)

――午前11時半、出発から5時間に及ぶ死闘を乗り越え、ついにヒラリーとテンジンはエベレストの頂に立つ。

彼らは頂上で握手を交わし、互いの背中をたたいて喜びを分かち合った。

そこには、銀嶺に輝く麗しい“同志の絆”があった。 

「山には友情がある。山ほど人間と人間を結びつけるものはない。どんな難所ででも、手をたずさえ、たがいに心をかよわすことができる」と、

後にテンジンは語っている。エベレスト登攀の最大の力は「友情」と「団結」にこそあったのだろう。

歴史的な壮挙に世界は沸き立った。ヒラリーには英国王室から「サー(卿)」の称号が与えられ、テンジンはネパール・インド両国に英雄として迎えられた。 

その後、「最初に山頂に立ったのはどちらか」との論争が熱を帯びていくが、2人は一貫して同じ答えを繰り返した。

「一緒に頂上を踏んだ」と――。

〈ヒラリーとテンジンを語る池田先生〉
いかなる勝負も、「先んずれば人を制す」である。
自分らしく、全力で、勝利への準備をすることだ。
その人には誰もかなわない。
“あのヒマラヤのように、偉大な人に”――

後年、ヒラリーは登山を共にしたシェルパたちへの謝意を込め、彼ら(シェルパ族)の住む村に学校や医療施設を建設。

さらには、2008年に亡くなるまで、ヒマラヤ山脈の環境保全に尽力した。 

03年には、池田大作先生に署名入りの書籍を贈っている。

1995年10月31日、池田先生はネパールを初訪問。

諸行事の合間に首都カトマンズ郊外を訪れ、荘厳な夕映えに雄姿を現したヒマラヤ山脈をカメラに収めた。そ

の際、集まった近所の村の子どもたちに、こう語り掛けている。 

「ここは仏陀(釈尊)が生まれた国です。仏陀は、偉大なヒマラヤを見て育ったんです。

あの山々のような人間になろうと頑張ったのです。堂々とそびえる勝利の人へと自分をつくり上げたんです。

皆さんも同じです。すごい所に住んでいるのです。必ず、偉い人になれるんです」 

その光景は、まるで美しい名画のようであった。 

「広宣流布」を「山」に例え、マロリーの言葉を交えた先生の指導に、こうある。 

「『大志をいだき、それにむかって努力することこそ人間を人間たらしめるものだ』(中略)

困難な試練の山に、勇敢に挑むからこそ、自分自身の秘められた力が発揮できる。

広布の山への登攀――それは、人類の境涯を最上の高みへと導きゆかんとする、壮大にして荘厳なる仏の大偉業であります。

いかなる断崖絶壁に直面しようとも、妙法に生き抜く不二の師弟には、無限の仏の力が涌現しないわけがありません」

(2011年12月3日、新時代第54回本部幹部会へのメッセージ)

また、ヒラリーとテンジンの初登頂の成功は「早くからの準備」「先入観を捨てたこと」「中心者の執念」「不滅の友情」にあったと述べ、次のように訴えた。 

「いかなる勝負も、『先んずれば人を制す』である。自分らしく、全力で、勝利への準備をすることだ。

『準備がある人』『勝利の決意がある人』には、だれ人もかなわない」(2003年2月5日、第25回本部幹部会でのスピーチ) 

さあ、誓いの「5・3」から、民衆凱歌の頂へ、勇気の登攀を! 

私たちは進み続ける。そこに目指すべき山がある限り。越えるべき山がある限り。