第17回 エミール・ザトペック
22年3月16日 
勇気のランナーチェコの陸上選手
ゴールに飛び込む前に諦めて自分に疑いを抱いてはならない。

自身の最高峰を目指し、限界に挑む人の姿ほど、心を打つものはない。スポーツには、その感動を生み出す力がある。

陸上競技に、かつて10年以上にわたって長距離界のトップに君臨し、複数の種目で世界記録を18度も塗り替えた人物がいた。

チェコ(当時チェコスロバキア)のエミール・ザトペック(1922─2000年)である。

荒々しい呼吸で、後続をけん引するように走ることから、付いたあだ名は「人間機関車」。

だが彼は、決して“機関車”や超人だったわけではない。専門家から見れば、その脚力はとても世界に通用するものではなかったという。

華々しい活躍を支えた「圧倒的な走力」──それは「圧倒的な練習量」によって磨かれた。

練習時には真っ先にグラウンドへ行き、いつも最後まで残るのがザトペックだった。

速さと持久力を鍛えるため、短距離走を反復するトレーニングを実践。

「人間、ゴールにとびこむまえに決してあきらめたり、自分に疑いを抱いてはならぬ」との信念で、常に全力を尽くすことを心掛けた。

その中で次々と自己ベストを更新。国内外の大会で優勝し、五輪ではロンドン(1948年)の1万メートルに続き、ヘルシンキ(52年)の5000メートル、1万メートル、マラソンの3種目で金メダルに輝く快挙を成し遂げたのである。

一方、中距離には「1マイル(約1609メートル)」という種目がある。この競技では長年、「4分」の記録の壁が立ちはだかっていた。

その壁を初めて破ったのが、ロジャー・バニスター(1929─2018年)。

米ライフ誌が“過去1000年で最も功績を残した世界の100人”に選んだ唯一のアスリートであり、英オックスフォード大学に学んだ医学生である。

当時の陸上界では、人間の潜在能力と努力をもってしても「1マイル3分台」を出すのは無理というのが定説だった。

それに疑問をもったバニスターは、医学の勉強に励みながら、科学的知見に基づいたトレーニングに取り組んだ。

“自分がもつ精神と身体のエネルギーを一滴残らず4分の間に解放する”──わずか数秒、コンマ数秒を削るため、人が一生かけて歩く以上の距離を1年で走った。

そして、その「時」は訪れた。

挑戦開始から1年以上が過ぎた1954年5月、ついにバニスターは競技会で「3分59秒4」というタイムをたたき出す。

すると、その直後から“自分にもできる”と、3分台で走り切るランナーが次から次に現れた。

彼が壊した“4分の壁”──それは、幾多の中距離選手を打ちのめしてきた“諦めの壁”だった。

〈若き日の池田先生の誓い〉
妙法の青年革命児よ、
真っしぐらに、進みゆけ。
山を越え、川を越え、谷を越えて。
“走れメロス”の如くに。
厳然と、師は見守っているぞ。

〈箱根駅伝の創設者・金栗四三〉
失敗は成功の基にして、
雨降って地固まる日を待つのみだ。

偉大な栄光の陰には、必ずといっていいほど苦難や挫折のドラマがある。

「日本のマラソン王」と呼ばれる金栗四三(1891─1983年)も、試練を味わい、乗り越えた一人であった。

金栗は1912年、日本人初のオリンピック選手としてストックホルム大会のマラソンに出場。

国内予選会では大記録を出したものの、世界のスピードに圧倒された上、極度の緊張と猛暑などの悪条件により、途中棄権してしまう。

翌日、彼は悔しさをにじませながら、日記にこう決意を記した。

「しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。人笑わば笑え」

さらに「粉骨砕身してマラソンの技を磨き」とつづり、次大会での雪辱を固く心に期した。

だが、選手としてのピークにあった4年後のベルリン五輪は第1次世界大戦の影響で中止に。

それでも金栗は世界への夢を諦めず、同時に次代を担う後進の育成にも情熱を注いでいく。

その中で生まれた一つが、今日に至る「箱根駅伝」である。

五輪の失敗を飛躍の力に変え、陸上のみならず、日本スポーツの夜明けを開く立役者の一人となった金栗。

先日閉幕した北京冬季五輪・パラリンピックや昨年の東京五輪・パラリンピックにおける日本人選手の活躍、そして、新春の箱根路を駆けた創価大学をはじめとする学生ランナーたちの奮闘を思う時、いかなる事業にも、その礎には先駆者の労苦があることを忘れてはなるまい。

池田先生は、若き日の日記につづっている。

「妙法の青年革命児よ、白馬に乗って、真っしぐらに、進みゆけ。山を越え、川を越え、谷を越えて。“走れメロス”の如くに。厳然と、師は見守っているぞ」と。

書いた日は1956年(昭和31年)3月29日。“まさかが実現”の勝利を果たすことになる「大阪の戦い」の真っただ中であった。

『走れメロス』(太宰治著)は友のため、正義のために走り抜いた一人の青年の物語。

先生は恩師の構想を師弟の誓願として、行く先々で同志を鼓舞しながら、広布の“限界の壁”“不可能の壁”を決然と打ち破っていった。

さらに先生は、創価の若き「正義の走者」たちに、「勇気のランナー」たる先人たちの人生を通して励ましを送ってきた。

ザトペックを通しては──

「青春の道は、決して途中では決まらない。自分自身を信じ抜き、負けじ魂を燃やして、最後の最後まで走り抜く人に、栄冠は輝くのです」(2017年6月4日、高等部結成53周年記念大会へのメッセージ)

バニスターを通しては──

「勝負の世界は、“心の壁”との戦いです。(中略)最高の努力をするために、心を強める最高の祈りをするのです。

限界まで努力したら、また祈って限界を突破する努力を重ねていくのです。大事なことは、具体的に、そして強盛に祈ることです。

的を狙わずに弱々しく矢を放っても当たらない。

何とかなるだろうでは、何ともなりません。『何としても!』という、ひたぶるな祈りこそが、実を結ぶ。全身全霊をかけた祈りが、御本尊に通じないわけがないのです」(「未来対話『夢の翼』」第6回)

金栗四三を通しては──

「転ぶことだってある。何度転んでも、また立ち上がる若人こそ勝利者だ。

創価の不屈の負けじ魂は、自分だけではなく、一緒に走る仲間や、あとに続く後輩たちを励まし、明日へ希望を広げていける。

ゆえに、目先のことに一喜一憂することなく、苦しい時ほど勇気に燃えて、前へ前へ進むことです」(18年11月17日、創価学園「英知の日」へのメッセージ)

きょう3月16日は「広宣流布記念の日」。後継の誓い新たに、弟子が走り出す日である。