第13回 高杉晋作
21年10月30日 
人は窮地にあって活路を見いだす。
だから私は「困った」とは言わない。
真の楽しみは苦しみの中にあるのだ。

「困ったという一言だけは断じて言うなかれ」。それが、彼の信念だった。

困ったと嘆いて立ち止まっていても、何も始まらない。前へ踏み出してこそ、人生も時代も動きだす。

「人間、窮地におちいるのはよい。意外な方角に活路が見出せるからだ」「私は知る 真の楽しみは苦中にあると」

こう語ったこともある。「戦いは一日早ければ一日の利益がある。まず飛びだすことだ、思案はそれからでいい」と。

彼の名は高杉晋作。幕末の思想家・吉田松陰の愛弟子であり、動乱期の長州(現在の山口県)に現れた希代の志士である。

奇抜な発想と大胆な行動で乱世を疾駆した晋作の生涯は、今なお人々を魅了してやまない。

数え19歳で松下村塾に入門。同志と切磋琢磨し、頭角を現す。師のもとで学んだのは約1年。

塾生は100人に満たず、講義室も当初は8畳一間と狭かったが、ここから若き逸材が歴史回天の舞台へ躍り出ていった。

1859年10月、安政の大獄の余波を受けた松陰が、志半ばで刑死する。

「ただ日夜我が師の影を慕い激歎仕るのみ」(ただ日夜、わが師の影を慕い、激しく嘆く)

──晋作は血涙を絞り、耐え難い怒りと悲しみの心情を書き記した。

4年後の正月、罪人として葬られていた松陰の遺骨を改葬することに。

道中、番人が“ここは将軍が通る橋だから、不浄のものは通れない”と制止した。

すると晋作は激怒し、「勤王の志士の遺骨を改葬するのに、何を言うか」と一喝。

“偉大な師を侮辱する者は、命を賭しても許さない”──烈々たる気迫に番人は即座に退散していった。

「自ら愧ず 未だ能く舊寃を雪ぐ能わざるを」(私は自らを恥じている。いまだに師の仇討ちを果たしていないからだ。

必ず果たしてみせる)とは、晋作が墓前で詠んだ叫びである。

師弟に徹する人生に、恐れも迷いもない。不二の弟子の胸には「師の仇討ち」への闘魂が、赤々と燃え上がっていた。

〈若き日の池田先生の誓い〉
晋作の如く、戦おう!
民衆を救うのだ。味方を増やすのだ。
いかなる苦闘も乗り越え、
満天下に勝鬨をあげてこそ、
まことの弟子である。

置かれた境遇を嘆いていても、
何も変わらない。つまるところ
人生は心の持ち方一つで決まる。

山口・萩市にある松下村塾の史跡を視察する池田先生(1964年8月)。56年11月、山口開拓指導の激闘の合間にも訪問。

その折、先生は同志に、「吉田松陰だけが偉大であったのではない。弟子もまた、偉かったから、吉田松陰の名が世に出たんです。

戸田先生が、どんなに偉大でも、弟子の我々がしっかりしなければ、なんにもならない」──と。

寸暇を惜しんで、あるべき弟子の姿勢を伝えた

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」──時を逃さず、電光石火のスピードで打って出る。

ここに“戦をすれば負け知らず”といわれた風雲児・高杉晋作の真骨頂がある。

師・吉田松陰は「草莽崛起」を掲げた。

“民衆が立ち上がれば、巨大な力を発揮する”との意味で、淵源は日蓮大聖人にあると、松陰は述べている。

この構想を継承した晋作は、1863年6月に奇兵隊を創設。入隊条件は身分でも経歴でもなく、「志」があるか否かにあった。

翌64年3月、脱藩の罪で投獄。場所はくしくも、生前の松陰が投じられた「野山獄」だった。

「先生を慕うてようやく野山獄」と詠じた晋作の若き魂に、悲観や悲嘆は微塵もなかった。

胸中には、たとえ牢につながれても、師の志を継いでいるとの自負が光っていた。

3カ月の獄中生活に耐え抜いて出獄。その後、第1次長州征伐が起こると、幕府に屈した故郷の惨状を憂い、亡命先の九州から下関へ。

「国を救い、正義を貫け」と、一人立ち上がった晋作に80人が呼応し、次いで決起した民衆のスクラムによって軍勢は3000人に。

形勢は一変し、倒幕への流れが加速した。

66年には第2次長州征伐が勃発。この時、長州軍はわずかな兵力ながら、団結の力で約15万の幕府軍を撃破した。

“不可能を可能にした”痛快なる逆転劇が、明治維新への大転換を告げる暁鐘となったのである。

だが、皆が喜びに沸く中、再び晋作を試練が襲う。不治の病とされた肺結核に倒れたのだ。

「面白きこともなき世に面白く」。

病床で詠んだ上の句に、見舞いに来た歌人が「すみなすものは心なりけり」と下の句を添えたのは有名な史実である。

──自身の置かれた境遇を嘆いていても、何も変わらない。人生は、つまるところ心の持ち方一つで決まるのだ──

67年4月、近代日本の夜明けを見ることなく、27年余の生涯を閉じた晋作。

師の理想を実現し、師の仇を討った彼は、亡くなる前、訪ねてきた同志にこう繰り返したという。

「ここまでやったのだから、これからが大事じゃ。しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」と。

恩師・戸田城聖先生は「歴史上、会って語りたい人物」の筆頭に高杉晋作を挙げた。

吉田松陰との師弟の実像に、牧口常三郎先生と自分、自分と池田大作先生を重ね合わせた。

松陰が松下村塾で講義を始めてから100年後の1956年(昭和31年)10月。戸田先生の命を受けた池田先生は、山口に開拓指導の第一歩をしるす。

当時、先生は28歳。一瀉千里に激闘を制する決意を、日記にこうつづった。

「来月より、山口県、全面折伏の指示あり。小生、総司令……。義経の如く、晋作の如く戦うか。歴史に残る法戦」(同年9月5日)と。

後年、先生は述懐している。

「戸田先生から『山口開拓闘争』の指揮を命じられた時、私は真っ先に岡山から下関へ走った。(中略)

下関で決起した『晋作』の如く、戦おうと! 民衆を救うのだ。

敵を倒すのだ。味方を増やすのだ!

以来4カ月で、私は、この山口に、約10倍の正義の人材・拡大の歴史を創った。

いかなる苦闘も乗り越え、満天下に勝鬨をあげてこそ、まことの弟子である」(本紙2007年12月19日付「随筆 人間世紀の光」)

そして、晋作から学ぶ弟子の生き方を同志に伝えてきた。

「(晋作は)死の前年には幕府軍に勝利を収め、倒幕・維新という、歴史回天への道を開いていったのである。

大事なのは、弟子である。一切は、弟子で決まる。(中略)

『師弟』を根幹にした異体同心の陣列こそ最強である。

この方程式でやっていくならば、我々は百戦百勝である」(07年11月28日、広布第2幕 第3回全国青年部幹部会でのスピーチ)

「晋作は、師の仇を討っていったのである。

戸田先生は、日本の軍部政府によって獄死させられた牧口先生の仇を必ず討つと誓い、日本の広宣流布の基盤を築かれた。

私は、全世界に妙法という平和の大哲理を弘めることで、戸田先生の仇を討った。

師の仇は弟子が討つ──これが、創価の正義の血脈である」(08年7月16日、新時代第20回本部幹部会でのスピーチ)

師弟ある限り、勝てぬ闘争はない! 越せぬ山坂はない!

幾多の逆境にも負けなかった英雄の姿は、険難の峰に挑む我らの魂を鼓舞してやまない。

※高杉晋作の言葉や足跡等は、次の書籍などを参考にしています。