第4回 マハトマ・ガンジー
21年2月7日 
この試練を乗り越えた時、すべては好転する。
そう信じて耐え抜いた時、とてつもない力を手にすることだろう。

インドを植民地支配から解放へと導いた力──それは暴力による革命ではなかった。

「非暴力の精神」で結ばれた不屈の民衆のスクラムであった。

その連帯を率いた「マハトマ(偉大なる魂)」と呼ばれる人物は、いかなる苦境にあっても、理想への歩みを止めなかった。

インド独立の父・ガンジー。「一人の人に可能なことは、万人に可能である」。

この確信のままに、彼が貫いた人権闘争は一人から百人、千人、万人へと広がり、人々の胸中に勇気の炎を燃え上がらせていった。

支配国から経済的に自立するため、外国産を脱ぎ捨て、チャルカ(紡ぎ車)を使って衣服を生産。塩の専売という不当な政策には、デモで徹底抗議した。

有名な「塩の行進」である。

こうした運動の先に待ち構えていたのは、激しい迫害の嵐だった。だが、無名の庶民たちは“人と戦うのではない。

人の中に潜む憎しみと戦うのだ”と、抵抗も屈服もしなかった。

その先頭には常にガンジーの痩身があった。彼は幾度も投獄されながら、命を削って同志を鼓舞し、励ましを送り続けた。

「人は何度でも立ち上がる。立ち上がっては倒れ、立ち上がっては倒れ、その足もとはおぼつかないかもしれない。

けれども、立ち上がったことは、一生忘れることのない、かけがえのない記憶となる」

「不幸はわたしたちに与えられた試練である。この試練を乗り越えたとき、すべてはきっと好転する。

そう信じて、辛抱強く耐え抜こう。耐え抜いたとき、あなたはとてつもない力を手にしていることだろう」

ガンジーの闘争は、やがて国際社会を、敵対する人々の心さえも動かしていく。

そして1947年8月15日、インドは自由の夜明けを迎えたのである。

その前日。日本では19歳の池田大作先生が、恩師・戸田城聖先生と運命的な出会いを刻んでいた。

インドを源流とする仏法を世界へ未来へ──新たな平和の潮流が起ころうとしていた。

〈マハトマ・ガンジーを語る池田先生〉

「進むべき距離がいかに遠くとも第一歩はどこまでも第一歩であり踏み出さなければ第二歩はない」

その地道な忍耐と執念こそが偉大な勝利を可能にする。

〈マハトマ・ガンジー〉

自己浄化は自由への最も確実な道である。

そのために必要なのは──何ものにもたじろがぬ、山のように不動の信仰なのだ。

1992年2月、インドを訪れた池田先生はガンジー記念館のパンディ副議長と会談。

マハトマの笑顔の写真が2人を見守る中、ガンジーの直弟子である副議長は語った。

「池田会長はガンジーと同じ精神のメッセージを広げておられます」と(ニューデリーの同記念館で)

1869年10月2日に生まれたガンジーが、人権闘争に立ち上がったのは23歳の時。

弁護士となり、インド人商人の顧問として南アフリカへ赴いた。

彼はそこで「人種差別」の分厚い壁にぶつかる。

以来、南アで“インド人救済法”の可決を勝ち取るまでの21年間、熾烈な戦いに身をささげた。

メディアでの抗議や地位向上を目指した政府への協力……。

試行錯誤を繰り返しても、光の見えない現実が続く。

そんなガンジーに大きな影響を与えたのが、英国の思想家ラスキンの著書『この最後の者にも』だった。

個人の中にある善は、全てのものの中に潜んでいる善──この本との出あいを機に、誰も犠牲にしない社会の建設を目指すようになった。

後に、仏法にも啓発を受けたガンジーは「人間ひとりひとりに非暴力を展開させる無限の可能性が備わっている」との信念で、人々に“内面の変革”を促していった。

「(自己浄化は)自由へ向かういちばん真直で確実な道であり、同時にいちばんの早道でもある。自己浄化のためには、いかに努力しようともし過ぎるということはない。

それに必要なのは、──何ものにもたじろがぬ、山のように不動の──信仰なのだ」

1914年、南アでの長い戦いに勝利した後、祖国に帰国。

そこで彼は、「カースト」という身分階級制度の外に置かれた最下層の“不可触民”を「ハリジャン(神の子)」と呼んで敬意を示し、その解放を最大の悲願として戦い抜いた。

ガンジーの闘争──それは単に独立という国外に向けられた戦いだけではなかった。

国内で虐げられた全民衆のために起こした戦いでもあった。

だからこそ性別や年齢、地位といった、あらゆる差異を超えて皆が連なり、一つとなったのだ。

その精神は、インド独立の翌年、彼が凶弾に倒れた後も決して失われることはなかった。

後継の人々が遺志を伝え続け、アメリカ公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キング博士をはじめ、世界各地で人権闘争に戦う勇者たちの希望となった。

池田先生は1961年2月1日、ガンジーを荼毘に付した聖地ラージ・ガートを訪問。独立の父の足跡を偲び、記念碑の前で題目を唱えた。

「すべての人びとの目から涙をぬぐい去りたい」と願ったマハトマと、「地球上から“悲惨”の二字をなくしたい」と祈った恩師──。

先生の胸には、両者の峻厳な精神を継承しゆく熱情がほとばしっていた。

92年2月11日には、ガンジー記念館の招請を受け、インド国立博物館で「不戦世界を目指して──ガンジー主義と現代」と題して講演。

その日はくしくも戸田先生の誕生日であった。

池田先生はガンジー主義の特徴として、1.楽観主義2.実践3.民衆4.総体性の四点に言及。

マハトマが理想とした「開かれた宗教性」にこそ、人類を蘇生させゆく大道があると論じ、聴講したガンジー研究者などから惜しみない賛辞が寄せられた。

先生はこれまで、ガンジーの直弟子である同記念館のパンディ副議長やJ・P・ナラヤン氏、インド・ガンジー研究評議会議長のN・ラダクリシュナン博士のほか、歴代大統領や首相など、マハトマの精神に連なるインドの知性と友情を結んできた。

さらにはガンジーの言葉を通し、友を励まし続けている。

「『これから進まなければならない距離が1マイルであっても、または、1000マイルでも、第一歩はどこまでも第一歩であり、第一歩が踏み出されなければ第二歩はない』

いかなる道も、一歩また一歩と進んでいくことだ。いかなる戦いも、一つ一つ、手を打っていくことだ。

その地道な忍耐と執念こそが、偉大な勝利を可能にする」(2007年6月14日、「7・3」記念協議会でのスピーチ)

「ガンジーいわく。『あなたの崇高な夢、大志は、必ず実現されるでしょう。

良い目的のために努力すれば、それは決して無駄になることはない』と。強き意志のあるところ、夢を実現する道は必ず開かれる。

いわんや、私たちには、『祈り』がある。絶対に勝つことができるのだ」(08年9月30日、新時代第22回本部幹部会でのスピーチ)

全ては一歩から始まる。意志のあるところに道は開ける。

本年は、先生のインド初訪問から60周年の節目である。