第2回 周恩来
20年12月26日 
周恩来総理㊧と池田先生の一期一会の出会い。総理の強い願いで実現した会見から、日中友好の大河が開かれていった

(1974年12月5日、北京の305病院で)

<周恩来総理>
社会を変えるには、自らの心の変革から始めよ。
報恩の気概で志を立て、大事業を成し遂げるのだ。

「みんなは、何のために勉強するのかな?」。ある学校の授業で、先生が生徒たちに質問した。

「自分の将来のため」「金持ちになるため」――答えはさまざまだった。「では、君は?」と先生が問うと、その少年は立ち上がって答えた。

「中国の興隆のためです!」

少年の名は「周恩来」。当時13歳。“人民の父”と敬愛される周総理の若き日の逸話である。 

その大志を育んだのは、試練が続いた幼少・青年期だ。生後すぐに養子に出され、9歳で実母、10歳で養母と死別。

貧しい暮らしを強いられた。その後、伯父に引き取られると、一緒に移り住んだ天津で南開学校(南開大学の前身)に入学。

1913年8月、15歳の時である。

生活苦で学費を払えない時期もあったが、強靱な意志で学び抜き、成績は常に最優秀。

恩師や友人の応援もあり、卒業後は日本に留学した。そうした苦労の経験が「恩」を忘れない生き方の土台になっていった。

留学中の日記に、こうある。

「仏は報恩への道は無上と言うが、恩も返していないのに、どうやって成仏するのか? 

『人間は気概を持たなければならない。』と言われるように、私はこの言葉に従って、報恩の気概で志を立て、大きな事業を成し遂げて彼らを安心させ、人生を無駄にしないようにする」

祖国を救う方途を求めて海を渡った周青年。だが、そこで見たのは、軍国主義へと傾斜しゆく希望なき日本の世相だった。

やがて帰国を決めた周青年は日本を去る直前、京都の嵐山へ(19年4月)。雨に煙る桜を眺め、心情を詩に詠んだ。

「この世のあらゆる真理は/求めれば求めるほど曖昧である/――その曖昧さのなかにたまたま一点の光明が見えると/ほんとうにますますあでやかで美しい」

一点の光明――それは救国救民への覚悟だったに違いない。

21歳の指導者は「革心」と「革新」をモットーに、決然と立ち上がった。社会を変えるには、まず自らの心の変革から始めよ!

後に夫人となる鄧穎超氏らと共に、国家の未来を開く挑戦を開始したのである。

<周恩来総理>
一人で閉じこもっていてはだめだ。
勇んで人間の中に飛び込む。
その人を大いなる勇者と呼ぶのだ。
新中国が誕生する半年前、周総理は青年たちに訴えた。

「1人で部屋の中に閉じこもっていてはだめだ。

千軍万馬の中で人と関わり合い、人を説得・教育し、或いは人から学び、最も広い範囲で人々と団結して戦うべきである。

それが勇気のあることであり、そのような人を大いなる勇者と呼ぶのだ」

“大衆の中で、大衆とともに”――それが不動の信念だった。

1949年10月1日、新中国が成立し、総理兼外交部長に就任。周総理は78歳で生涯を閉じるまで、中国の建設に駆けた。

ある時、不眠不休で働く様子を心配し、周囲が体をいたわるよう勧めたことがあった。

すると総理は、三国志の英雄・諸葛孔明の言葉を引き、その覚悟を口にした。

「鞠躬尽瘁し、死して後已まん(心身を尽くして、死ぬまで戦い続ける)」と。

経済の回復、国際関係の樹立……。対応すべき課題は膨大であった。

その中で、66年から始まった「文化大革命」の動乱期は、最も困難なかじ取りを迫られた。

権力の中枢を握ろうとする悪名高き四人組が暗躍し、国家が破壊されようとしていた。

無数の人民が犠牲になり、その狂気の刃は総理にも及んだ。

だが“寿命を10年縮めた”という文革の渦中、総理はあえて大火に飛び込み、激流に身を投じる。

「私が苦海に入らなければ誰が入るというのか」。あらゆる苦難を恐れず、命懸けで中国を守り抜いた。

文革に加え、対米、対ソ、対日の険悪な関係――内憂外患の状況下にあった68年9月。日本から驚きのニュースが舞い込む。

“創価学会の池田大作会長が、日本の中国への敵視政策を捨てて、両国の国交正常化を主張”

それは、池田先生の日中提言発表(9月8日)の報。光明日報の記者だった劉徳有氏によって、即座に中国へ打電された。

すでに学会を「民衆の中から立ち上がった団体」と注目していた総理は、提言を高く評価。

その後、日中友好の先達で、提言に「百万の味方を得た」と語った政治家の松村謙三氏を通じて、先生の訪中を熱烈歓迎する意向を改めて伝えるに至った。

「池田先生とは、どうしてもお会いしたいと思っていました」

「中日両国人民の友好関係の発展はどんなことをしても必要であるということを何度も提唱されている。

そのことが、私にはとてもうれしい」と周総理。

語らいの内容は香峯子夫人がメモにとどめた(1974年12月5日、北京の305病院で)

<周恩来総理を語る池田先生>
組織も個人も常に困難はある。
それは前進している証拠なのだ。
試練が何ものにも負けない自身を鍛え、自分たちの崩れぬ「城」を築き上げていく。

周総理と池田先生の会見が実現したのは、1974年12月5日。今月で46年を迎えた。

当時、がんを患っていた総理の体は極度に衰弱していた。医師団は“もし会うなら命の保証はできない”と猛反対。

だが総理は「どんなことがあっても会わねばならない」と、頑として譲らない。

鄧穎超夫人の進言もあり、短時間という条件付きで認められることに。先生は固辞するが、総理の強い意志を知り、入院先の病院へと向かった。

会見で総理は言った。「あなたが若いからこそ、大事につきあいたい」。総理76歳、先生46歳。

その視線は、自分亡き後の一点に向けられていた。

先生は繰り返し、総理の健康を気遣った。医師からも休むよう書かれたメモが入る。

しかし総理は目もくれず、未来への展望を語り続けた。

「これからは世界の国々が互いに尊敬し、励まし合って進むべきです」「中日平和友好条約の早期締結を希望します」

その言々句々を、先生は“遺言”として受け止めた。

結局、会見は30分にも及び、別れの際、総理は病身を押して先生一行を玄関まで見送った。

一期一会。最初の出会いが最後の語らいとなった。

先生は総理を「20世紀の諸葛孔明」とたたえ、その偉大な足跡を通し、勝利への指針を示してきた。

「組織であれ、個人であれ、常に困難はある。それは、むしろ前進している証拠なのだ。

すべての試練が、何ものにも負けない自分自身を鍛え、何ものにも崩れぬ自分たちの『城』を築き上げていくのである」

(2006年10月28日、創立記念日祝賀協議会でのスピーチ)
「炎の一念で、周総理は人民の胸に火を点した。四人組は打倒された。

“私たちの戦いは『人民のため』だ!”(中略)。

この心で戦いぬいたのである。広宣流布の長征も同じである。

『いかなる状況になっても戦おう! 前進しよう! 必ず勝とう!』。

この学会精神で、楽しく、朗らかに、ともに進んでまいりたい」(1996年10月25日、第4回本部幹部会でのスピーチ) 

幾多の試練を勝ち越えた「不倒翁」の人生は、時を超えて逆境に挑む勇気を送り続ける。