2・11「戸田城聖先生の生誕日」 25年2月11日 |
〈池田先生 永遠の指針〉 2・11「戸田城聖先生の生誕日」――「随筆 我らの勝利の大道」〈わが恩師・戸田先生〉から 師への報恩を貫く中に無上の栄光 民衆の幸福のために尽くす人生を きょう2月11日は、第2代会長・戸田城聖先生の生誕記念日。本年は125周年の節目となる。ここでは、池田先生が戸田先生の生誕110周年の時につづった「随筆 我らの勝利の大道」〈わが恩師・戸田先生〉(聖教新聞2010年2月11日付、同12日付)と共に、「2・11」に関する広布史を掲載する。 ![]() 第3代会長就任の翌年、恩師・戸田城聖先生を思い、広布伸展への誓いを新たにする山本伸一 一九〇〇年(明治三十三年)の二月十一日が、人類の平和と幸福のため、新たな精神の大光を送られた、私たちの師匠・戸田城聖先生の生誕の日である。 宿縁深厚の直弟子の私と妻にとって、一年のうちで最も嬉しい日だ。この日を迎えるたびに、私の胸には、師と共に戦い抜いた一日一日が、黄金の映像となって蘇ってくる。 ある時、戸田先生が笑みを浮かべて言われた。 「わたくしが、牧口先生のことを申しあげると、止まることがなくなる」(『戸田城聖全集』3) 私も、同じである。恩師のことは、何時間、いな、何日かかっても、とうてい語り尽くせない。 希有の師である戸田先生のお姿を通し、「広宣流布の指導者」のあるべき姿を、あらためて確認しておきたい。 第一に戸田先生は、先師・牧口先生に「報恩の誠」を尽くされた、不世出の弟子であられた。 「誠」の字を分解して見れば、“言を成す”ともなる。辞書には「まことの道を実行する」などとあり、実行は誠実の要件である。 師匠のご構想を、そして弟子としての誓願を、寸分違わず達成する。まさに、先生のご生涯は「誠」そのものであられた。 戦時中の二年の投獄の弾圧を勝ち越えた先生は、知人にこう綴っておられた。 ――恩師・牧口先生のお伴をして、法華経の難に連なり、独房に修行すること、言語に絶する苦労を経てまいりました。お陰をもちまして、身で「法華経を読む」という境涯を体験し、仏典の深奥を探り、遂に仏を見、法を知りました、と。 苦悩の民衆を救い、世界を平和へリードしゆく日蓮仏法の「立正安国」の奥義を、その胸中深く会得されていたのである。 戸田先生はある時、粛然として語られた。 「私は、牧口先生の言う通りにやった。師弟の道というのは、そうでなくてはならないのだ」 また、ある時は、「一歩も退かず、大折伏をして、牧口先生の仇を討っていくのであります」と。 敗戦後、壊滅状態にあった学会の再建のため、戸田先生は、ただ一人、何をもって立たれたのか。それは「地道な個人指導」「快活な座談会」「峻厳な教学」、そして「慈悲と正義の折伏」であった。 すべて「創価の原点」に立ち返り、牧口初代会長が生前、最も大切にされていた率先の「行動」に打って出られたのだ。 民衆こそ偉大なり! これは、妙法の巌窟王・戸田先生の信念であった。この「民衆」根本という精神こそ、私たちが、師匠から永遠に学び、継承するべき第二の点である。 先生の生涯は、常に庶民と共にあり、最前線の友の汗と涙と共にあった。 「一番苦労している人たちに手を差し伸べていくのだ。こういう方たちの味方となって、妙法を教え、救い切っていくのが、学会の使命ではないか」と。 日夜、懸命に働く人びとの胸に、「信心は一人前、仕事は三人前」との励ましが、どれほど深く響いたことか。 「御みやづかい(=仕事)を法華経とをぼしめせ」(全1295・新1719)との御聖訓を踏まえての珠玉の具体的な指針であった。苦労知らずの遊戯雑談の坊主などには、絶対にできない指導であった。 朝な夕な、会員一人ひとりの声に、誠実に耳を傾けられた。その人の本質を見抜き、その人の本質を高め輝かせてくださる先生であった。「宿命転換」「人間革命」の大仏法に基づいて、絶対勝利への勇気と希望を贈っていかれたのである。 民衆の大地を離れて学会はない。現実のあらゆる苦悩と闘っている民衆の外に、学会はない。いな学会が、民衆そのものなのだ。ゆえに学会の勝利が民衆の勝利に通ずる。 日蓮大聖人は「諸法実相抄」に、「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」(全1358・新1789)と示された。真実の仏は、凡夫(衆生)という大地を離れては存在しない。民衆の上に君臨するのではない。仏は永遠に民衆の中にあり、永遠に民衆と共に生きているのである。 戸田先生は、「生き仏」とか「教祖」などと言われることを、最も嫌われた。「私は立派な凡夫だよ!」と呵々大笑されていた。 戸田先生は、学生部への法華経講義で語られた。 「大聖人の仏法は、衆生がいるから仏がいるという根本的な立場をとる。この考えで世の中の事象を考察するに、学生がいるから教師がいるのである。尊き学会員がいるから、幹部がいるのだ。 自分は幹部だ、有名人だなどと威張る人間は、必ずおかしくなる。絶対に威張ってはいけないし、威張らせてもいけない」 絶対に忘れてはならない、大事なご指導である。 「学会は、永遠に民衆の側に立つ」とは、戸田先生が教えてくださった根本の精神だ。 さらに第三に、戸田先生は、誰よりも青年を愛し、青年の育成に心を砕かれた名教師であられた。 先生の事業を支え、先生をお護りするため、私は、学業を断念せざるを得なかった。だが、先生は、その私に、一対一で万般の学問を授けてくださった。これが、誉れも高き「戸田大学」である。本年は、「戸田大学」がスタートして六十周年でもある。 先生は厳しかった。甘えなど許されなかった。 テキストを開いての勉強だけが、講義ではない。いつでもどこでも、師弟が向き合えば、「今、何の本を読んでいるか」「その内容を言ってみなさい!」――鉄を宝剣に鍛え上げる峻厳さであった。 私が世界の大学・学術機関から拝受した知性の宝冠も、すべて、この「戸田大学」での薫陶のたまものである。ゆえに私は、一つ一つの受章の儀式に、恩師と共に参列し、恩師に捧げる思いでお受けしてきた。 私は、「戸田大学」開始の年の日記に記した。 「青年は、小心であってはならない」 「自分は、これでいいと思っては、絶対にいけない」(昭和25年5月22日、『若き日の日記』、『池田大作全集』第36巻収録) 青年は、学ぼうとする姿勢それ自体が、自身の成長と勝利への糧となる。 御書には、「浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」(全509・新612)とある。 わが後継の青年よ!君たちの成長が、創価の勝利となる。君たちの行動が、世界の希望を開くのだ。 第二代会長・戸田先生が最も大切にされた「師弟」「民衆」「青年」――。 「師弟を貫け!」 「民衆を敬え!」 「青年を育め!」 ここに、創価完勝の永遠の軌道もある。 師弟を捨て去り、民衆を愚弄し、青年を軽んずる邪宗門は、哀れな衰退の一途をたどっている。 ともあれ、大事なことは「一人立つ」精神である。戸田先生は第二代会長に就任された時、「広宣流布は私がいたします」と誓願なされた。 誰かを頼むのではない。決然と「一人立つ」ことである。「自分」から始めることである。 戸田先生は、約二万人に発展した男女青年部に、有名なご指導をなされた。 「一人、ただ一人立てばよい。ただ一人立つ確信をもって立つところに、いっさいの仕事ができあがる」(『戸田城聖全集』4) アメリカの思想家エマソンは厳しく叱咤していた。 「恩恵を受けながら自分では何も恩恵を与えない人こそ卑劣なのだ」(「償い」入江勇起男訳、『エマソン選集』2所収、日本教文社) この哲人は、「最も多くの恩恵をほどこす人こそ偉大なのだ」(同前)と叫んでやまなかった。 現在の私は、あの約十年にわたる師匠・戸田先生の訓練なくして存在しない。 そして先生が逝去された後の半世紀もまた、「お前は生き抜け!」と、先生の寿命を私に頂戴したという思いで、戦い抜いてきた。 だから私は、師匠に育てていただいたこの生命を、師の悲願であった「広宣流布」――民衆の幸福勝利のために捧げるのだ! 師弟不二の報恩の大道を歩む人生は、最高に幸福であり、無上の栄光である。 人間の 王者の心は 信心に 無量無辺の 力と湧くなり 【広布史】 戸田城聖先生は1900年(明治33年)2月11日、現在の石川県加賀市塩屋町で生まれた。北海道の厚田、夕張で青雲の志を育み、上京。19歳で人生の師となる初代会長・牧口常三郎先生に出会い、共に創価教育学会(現在の創価学会)を30年(昭和5年)11月18日に創立した。 軍部政府に抗して信仰を貫いた師弟は逮捕・投獄され、牧口先生は不惜身命の信心で戦い抜かれて殉教し、生きて牢獄を出た戸田先生は、先師の遺志を継いで学会の再建に一人立った。 戦後の混乱期にあって、戸田先生は常に民衆の中に飛び込み、友が抱える悩みに耳を傾けた。会合や御書講義の折には質問会を持ち、一人一人の信心への確信を呼び覚ました。 そんな中、人生の道を模索していた池田大作先生が戸田先生と出会い、“この人なら信じられる”と、弟子として生きることを誓う。師の薫陶のままに実践を貫き、恩師の願業である弘教75万世帯への道を切り開いていった。 その「初陣」こそ、“恩師・戸田先生の誕生月である2月を拡大の結果で荘厳しよう”と指揮を執った「二月闘争」であった。当時、24歳の池田先生は蒲田支部の支部幹事として、1カ月で201世帯の弘教拡大という金字塔を打ち立てた。1支部で月100世帯の弘教が限界だった時代に、壁を破る飛躍の原点となった。 池田先生は「随筆 人間世紀の光」〈永遠なる二月の闘争〉につづっている。 「師弟は不二である。弟子の勝利が、師匠の勝利だ。ゆえに私は、『広宣流布』即『世界平和』の熾烈な戦いにあって、常に最高の拡大と最高の勝利を自らに課した。弟子の栄光は師に還り、師の偉大さの証明になるからだ」と。 その言葉通り、池田先生は、巡り来る2月11日を弟子の行動と勝利で飾ってきた。 日本の広宣流布の堅固な礎を築いた戸田先生の生涯をつづった小説『人間革命』の新聞連載が完結したのは、93年(平成5年)2月11日。この日、池田先生は、リオデジャネイロ連邦大学からの名誉博士号授与式に臨んだ。 恩師の平和哲学を継承しゆく「戸田記念国際平和研究所」を発足させたのも、96年(同8年)2月11日だった。 池田先生は常々、語った。“すべては恩師・戸田先生に捧げる栄冠である”と。 弟子の勝利で師の正義を証明する――この誓願で築かれたのが、今や192カ国・地域に広がる創価の歴史である。 |