池田先生と埼玉の月・9月㊤
鉄桶の団結で師弟の勝利を!
24年9月6日
 

第1回「埼玉県幹部総会」でスピーチする池田先生。「忍耐と勇気と明朗さをもって、雄々しく自分自身の人間革命の歴史を」と呼びかけた(1973年9月12日、上尾運動公園体育館で)

埼玉の同志は今、「ワン・チームで進もう! 『鉄桶の団結』拡大」月間をばく進中(29日まで)。“埼玉の月”に拡大の勢いを増し、池田大作先生の一周忌である「11・15」、学会創立の「11・18」を弟子の勝利で飾りゆく。埼玉版では2回にわたって「池田先生と埼玉」の広布史を紹介する。今回は、幾重にも師弟のドラマが刻まれた9月の歴史をひもとく。(㊦は9月20日付に掲載予定)

新局面開く大闘争
1950年(昭和25年)9月2日。若き日の池田大作先生が、戸田城聖先生と共に埼玉・大宮の地を訪れた。
戦後、創価学会の再建に尽くす戸田先生だったが、学会の財政面を支えていた事業が、社会の大きな混乱の中で行き詰まっていた。その苦境を打開するため活路を求めたのが、埼玉だったのだ。
その後、池田先生は何度もこの地に足を運び、奮闘を重ねた。弟子の師子奮迅の闘争があり、やがて事態は大きく開かれる。
そして、翌51年(同26年)5月3日、戸田先生が第2代会長に就任。創価の師弟の歩みは、新たな局面を迎えた。

「9・25」川越地区講義
会長就任に際して、「75万世帯の弘教」という願業を掲げた戸田先生。願業達成への布石であり、緒戦として、志木支部川越地区の「地区講義」担当者に、池田先生を指名した。「戸田の名代として、毅然として行ってきなさい!」と、弱冠23歳のまな弟子を送り出したのだ。
池田先生は、真剣勝負で講義に臨んだ。記念すべき第1回の講義が行われたのは、同年9月25日だった。
以来、先生は10回にわたって川越を訪れ、同志に信心の確信を語り抜いた。後年、当時の真情について、「埼玉の地から、無数の地涌の菩薩よ躍り出で給え!」(「随筆 永遠なれ創価の大城」〈勇気凜々 二月を先駆〉)との一念だったと述懐している。
その通りに、当初は少なかった参加者が回を重ねるほどに増加。こうした地涌の乱舞は、やがて75万世帯の拡大、そして、広布の新時代へとつながっていく。その源流は、一人の「不二の弟子」の闘争にあったのである。

師から「永遠の指針」
「75万世帯」を成就した戸田先生は、広布のバトンを後継の弟子たちに託し、58年(同33年)4月2日に霊山へ。
後事の一切を担い立った池田先生は、2年後の「5・3」に第3代会長に就任。全国を駆け、世界を飛び回って同志を励まし続けた。同時に、生命尊厳の哲学を時代精神へと高めるため、各界の知性との対話を繰り広げていった。
そうした激闘が続く中で先生は73年(同48年)7月、当時の学会本部(東京・信濃町)で開かれた埼玉最高会議に出席。席上、先生は永遠の指針を示したのである。
「埼玉は『鉄桶の団結』を合言葉に進もう!」

「9・12」埼玉の日
同年の9月12日。上尾運動公園体育館に先生を迎えて、第1回「埼玉県幹部総会」が開催された。
新たな指針を掲げた会合の壇上には、縦11・7メートル、横14・4メートルという巨大なパネルが。そこに躍っていたのが、「鉄桶の団結」の文字だ。圧倒的なスケールに、同志の気概が表れていた。
スピーチに立った先生は、埼玉の地理や歴史を踏まえて、平和建設を担う友の使命に言及。“世界を潤す人間主義の大河を”と強調した。そして、「これからの長い広宣流布の旅路を、親子二代、三代かけて“天下の範”となって、偉大な歴史を残していただきたい」(指導集『広布の旗 師弟常勝の埼玉』)と望んだ。先生の提案で、全員で万歳を三唱する場面も。師と共に新たな出発を切ったこの日が、後に9・12「埼玉の日」となったのである。

「9・19」平和文化祭
9月は、池田先生と埼玉の青年との歴史が色濃く刻まれた月でもある。
82年(同57年)9月18、19の両日、所沢市の西武ライオンズ球場(当時)で、第2回「世界平和文化祭」が開かれた。第1回の開催地は、アメリカ・シカゴ。埼玉は、国内初の“世平文”の舞台となったのだ。
19日、先生が各界の来賓と共に出席。この日はあいにく、朝から雨が降っていた。それでも、“雨も演出の一つにしよう!”と意気軒高な青年たち。そんな若き友を励ますために、先生はグラウンドに足を運んだ。
場内から大歓声が湧き起こる。先生は傘も差さずに場内を1周し、「皆さん! 本当にご苦労さま」「風邪をひかないよう、工夫してくださいね」と声をかけ、ねぎらった。
総勢4万人の青年は、師が見守る中で渾身の演技を披露。歴史に残る平和の祭典は大成功を収めた。

「9・29」青年部の日
また、埼玉の青年だけで行われた初の文化祭として、今なお語り継がれるのが、85年(同60年)9月29日に川口市立芝スポーツセンターで開かれた第1回「埼玉青年平和文化祭」だ。
青年たちの熱誠に応えて先生は、会場に駆け付けた。
埼玉の若人による熱演の一つ一つに、惜しみない拍手を送る先生。最後にマイクを取り、「“自立の精神”“自立の人格”を築きゆく、青春の日々の鍛えであっていただきたい」と呼びかけた。
これが、9・29「埼玉青年部の日」の淵源となった。

池田先生が数々の足跡を刻み、同志と黄金の歴史を築いた9月。一人一人が「青年の心」で、自ら立ち上がる時だ。その師子たちの「鉄桶の団結」が、新たな時代を勝ち開く。